シナリオ小話 第41回 脚本の書き方(4)

「脚本の書き方」と題して、いくぶん端的な意見を折り混ぜながら、『そもそも脚本とはどういうものなのか』といったことについて考察してきたシリーズは、今回で一旦終了とします。
最終回の今回は、やや実践的な視点から、脚本を書く際の段階的な手順について考えてみたいと思います。

今回も結論から先に言っておきます。「イメージボードを作りなさい」ということです。
これがボクの提言できる「脚本の書き方」の手順についての、最初のアドバイスになります。

しばしば物語作りの作法書には「箱書き」なる言葉が出てきます。「箱書き」は他にも「プロット」や「シノプシス」「構想」「構成」等のように言われますが、ここでは個々の厳格な定義については扱いません。
そもそも「箱書き」や「プロット」といったものは、完成した脚本に対して「下書き」であったり「構想段階のノート」といった意味合いであり、多くの作法書では、プロットを組み、それをより具体的な箱書きへ落とし込んでからバランス等を調整して脚本を書き出すのが望ましい、という手順を紹介しているように思われます。このことは文章作りに関する一般論ですから、小説や論説文にも当てはまるであろうことです。

しかし、そもそも脚本とは何かということに経験的に精通している方ならいざ知らず、脚本初心者にとって、テーマだとかプロットだとか箱書きだとかいったことは、実は大変に理解しづらい。道の先がまったく見えないのに手順や経路を説明されても、不安になるばかりでしょう。
ボク自身も学校の講師を務めた際には、ひとつの様式として・・・

1.テーマ設定(何を述べたいかの明確化)
2.モチーフ選定(どのような事件を通じて述べるかの題材探し)
3.骨子の設計(4行プロット:起承転結の書き出し)
4.骨子の設計2(20行プロット:事件の流れの創作)
5.大箱書き(4行プロットに合わせて事件の配置)
6.小箱書き(起承転結に合わせて作劇分量の調整)
7.実執筆
8.校正

―――このような手順を教えてきました。
けれど、この手順に従ったからといって「脚本とは何か」が理解されるわけでもなく、逆に、完成形の脚本の姿を知らない者にとっては、それぞれの手順が何の目的のために存在するのかすら理解できないのではないのか? という疑問にぶつかったわけです。

そこで、今回あえて拙連載をご覧の皆さんに提言したいのは、「まず書いてみる」ことです。
前後関係をはっきりさせたり、論理的なつながりを意識・調整する前に、まずは具体的にシーンやドラマを「書いてみる」!

そもそも視聴者にとっての映像とは、連続する映像体験に他なりません。脚本が映像化されて視聴者の目に届く時、視聴者はその制作過程を知るすべもありませんし、脚本家が想定した論理も説明手順もすっとばし、眼前の映像世界を体験しているに過ぎません。
すると、脚本家が最終的な視聴者に“つながる”瞬間とは、登場人物のセリフそのものであり、画面に映す情景そのものなのです。
この意味から、脚本家は『自分が視聴者に見せたい・聞かせたいもの』を書くべきであって、その他の仕事などはありえません。
であれば、脚本家が脚本を書きたいと思った時、視聴者に見せたいものを書き殴ることから始めればよろしい。「こんなシーンがあれば楽しかろう」「こんな状況でこんなセリフが飛び出せば美しかろう」と思うものを書く。
あるシーンの会話を切り取っても良いし、映画の上でこれは出したいと思う情景について陳述しても良い。
・・・とにかく「書いてみる」ことなのです!
(もちろん脚本形式で書きましょう。小説ではないのです)

最初にこのような作業から始めることを、ほとんどの脚本作法書は紹介していません。
しかし、主に監督や美術さんが作成する「イメージボード」と呼ばれるものがあります。文字通り、紙のボード(板)やスケッチブックに、無作為に取り出されたシーンを発想するままに描くといった方法論です。美術畑の方々はしばしばこのような発想方法を採ります。しかし、ボクの経験上、脚本に携わる方々は感情的ではなく理知的ですし、多くの脚本家は理論家です。その結果、脚本を書くということは何か難しい論文を組み立てるに似た困難さを匂わせがちです。
―――ですから、今回はあえて情緒的かつ感情的な手法を提案します。

さて、脚本を発想するにあたって重要なことがいくつかあります。

まず、出来上がったものが映像となるという事実です。
文字で「利潤追求の企業姿勢はイカン」だとか「地球温暖化に警鐘を鳴らす」だとか「愛は何より貴い」と書いても意味がありません。脚本家にとって最大の関心事は、「こんな映像があればきっとこんな心情になってくれるであろう」「こういうドラマを描けば必ずこんな思いが通じるであろう」という『具体的な事象』でなければならないのです。
このことは小説や論説文と異なる最大の要素で、脚本家自らが結論を述べるわけにいかない映像脚本の最大の条件、時に足枷となります。
脚本家が描き出すのはいかなる場合にも『具体的な事象』であり、そこには「自分の言葉」はないのです。

次に時間です。映像という時間を扱う(2時間の映画を途中からは見ない)のですから、最初から最後にかけてひとつの流れを作らねばなりません。辞書を編纂するなら個々の記述は独立しているべきですが、ひとつの脚本に与えられる時間はひとつですから、前から後に向かってひとつの流れでなければなりません。逆を言えば、視聴者はひとつの流れであるとしか体験することができません。
時間の流れがあるということは、描いたものが順々になるということです。辞書の編纂とは違います。バラバラの事件を描写したとしても、A→Bの順番で見た時と、B→Aの順番で見た時では、視聴者にとっては意味が変わってきます。ですから、“完全に別個のもの”をひとつの映像脚本の中に盛り込むことは原則としてできかねます。

この2つの大前提を踏まえた上で、とにかく「書いてみる」ことをしてみて下さい。
こうして書かれたシーンの断片―――言葉、会話、情景、事件―――は、すでにひとつの物語を成すはずです。むしろ余計なものをはぎとった、脚本家にとってはその作品のエッセンスであると言えるでしょう。
こうなると、あとはそれぞれのエッセンスの前後により脚本として現実的な技法を駆使して効果的にする、という努力が待っています。

最低限の脚本としての大前提は以上の通りですから、まずは「書いてみる」。脚本としてのシーンやドラマを頭の中から引き出して来る。
もし脚本の作法書などを読んで学習しながらまだ脚本が書き出せていないなら(特に書き込みノート様式の技法書で最初に「テーマや葛藤の設定」なんて項目があってそこでつまずいているとしたら)、とにかく頭の中にある“その情景”や“その言葉”“その行動”“そのセリフ”を「書いてみる」ことをお勧めします。

最後に、繰り返しになりますが、脚本とは人物の動作とセリフと情景を羅列した台本に過ぎません。最終的にそれは人間の営みそのものや言葉そのもの、あるいは情景そのものでなければならないのです。ですから、何よりもまずそれを「書いてみる」こと。

・・・あなたが人間の一定の所作や言葉に感動しているなら、それをそのまま脚本に書き誰かが演じて映像となれば、やはり誰かが感動するはずなのです。脚本の意味合いはこれ以上でもこれ以下でもありません。技法や構成だなんてものは、この前後に付随するものに過ぎないのです。
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by genmuki | 2008-07-03 01:50 | シナリオ小話
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