カテゴリ:シナリオ小話( 64 )

シナリオ小話 第64回 アイディアとプロット

久しぶりに、フランシス・マリオン女史の『シナリオ講話』をひもといて、非常に鋭敏な一節について考えてみたいと思います。
以下のことは、しばしば、小説家と脚本家の根本的な相違点を明らかにするのだと思われます。

『シナリオ講話』第3話は「プロット」と題されており、その冒頭は次の通りです。

「ストーリー・アイディアとプロットとは異なったものです。アイディアはプロットの核心ではありますがしかしアイディアにプロットであることを期待してはなりません。それはちょうど粘土の塊に対して、これを材料に模造さるべき姿形を示すことを期待してはならないのと同じです。」
(仮名遣いは現代語に直しました。以下同様)

そして、以下、やや中略抜粋しますが、

「前に進むまえにお話ししておきたいのは、映画ストーリーを、小説類の他の形式に○○して用いられる観点と異なる観点から考察するのが有効であるということです。皆さんは視覚的表現のためにストーリーを準備されるわけで、従ってスクリーンの上に現われるように皆さんのストーリーを視覚化することが必要です。」
(○○部分は旧字活字で判読できませんでした;;)

「疑いもなく、大衆映画としての可能性をプロットにもっていながら、撮影所の読書係にシーンを思い浮べさせるほど明瞭な画面を提供しないために、拒絶されるような映画ストーリーが沢山あります。ですから、皆さんはむしろストーリーを書くより、シーンに組立てることを先ず考えなさい。或るシチュエーションにおかれた人物を描くことを考えなさい。ストーリーは言葉によって表現しなければなりませんが、それは結局読まれるものでなく見られるものです。ストーリーのなかにあってもスクリーンのうえに表現できないものは無用です。ストーリーは、スクリーンの上で、構成され若くは視覚化されるのです。物語られるのではなく、戯曲化されるのです。」

このような主張が、「プロット」冒頭部分に相当します。
以上のマリオン女史の指摘はは、ボクが常から、脚本とは技術の結晶であって、決してアイディア/思い付き/センスではないのだ、と考える根幹にあるものでもあります。

・彼は彼女に憎しみを向けながらも愛してしまうのだ
・彼女は次第に彼に心を引かれるのだ
・彼の中に芽生えた義憤の心は事ここに至って迷いを生じるのだ

―――そういった言葉は、小説のそれです。論述のそれであり、述懐のそれです。
しかし、脚本とは、そういったものではありません。ご存知の通り、目的とすべきものは、映像となった時点で、実際の俳優(アニメの場合はキャラクター)により、“具体的”なシーンの連続を通じて、最終的に視聴者に届いた内容であります。

しばしば「プロット」と称して、誰某は誰かのことを好きになる、とか、次第に恋に落ちる、といった記述の塊を書いて寄越す方がいらっしゃいますが、それは、上述のマリオン女史によると、単なるストーリーアイディアでしかありません。もっと言えば、それは大雑把な目標を示したものであって、脚本におけるプロットではないし、そもそも脚本でもなければ、場合によってはストーリーですらありません。―――漠然としたイメージであり、目的、夢想でしかないのでしょう。
これらを、具体的なやり取りを通じて映像化し、視聴者に届けるために“翻訳”するのが脚本家の仕事に他なりません。

常に、具体的なシーンを描こう、そこから喚起される感情とは何かを帰納的に考え引き出しに詰めよう―――感情とその動きを具体的で現実的な事件の羅列でもって連想的に描き出そうとする姿勢こそ、脚本家のそれです。
逆説的に言えば、「こんな風になれば面白いのにな」と考えることは他の誰でもできるということですし、それが脚本家やプロットプランナーの仕事などではないということです。

しばしば、「シナリオの原案はあります。これを書いてくれるサブシナリオライターを募集します」などという商業/同人の求人を拝見することがありますが、こういった方々は、残念ながら、“脚本”の何たるかを未だにご存知でないのでしょう。
その無知を笑うのではなく、脚本家として誠実にその要求に応えることができるよう、精進したいものです。そして、胸を張って言うべきであるのは―――貴方の示したのは単なるアイディアであり述懐であり目的意識であって、それはシナリオでもプロットでもない、その一言です。そして次に、その思いを作劇し具体化し視聴者に届く形にせしめるのは私の仕事です、ということに他なりません。
そうでなければ、いつまで経っても、脚本家は、示された原作/アイディア/ストーリーを、ただ単に膨らませ代書するだけの文字屋に堕すでしょう。―――コンセプトデザイナーを軽視するわけではありませんが、技術家としての脚本家は、明らかに別種の世界を観ていなければなりません。

初出 Mixi 拙連載より 2009.10.31
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by genmuki | 2009-12-17 18:46 | シナリオ小話

シナリオ小話 第63回 適した解説者

不定期連載にしてから久々の投稿です^^;
先般、知人のライターさんからこのようなご質問を頂きました。

「アクション物やスポーツ物の『技』なんかで、どうやったらその“凄さ”が伝わるんだろうねー」

・・・非常によく分かります!
脚本を書いていて、いわゆる“凄い”事象に出くわすことがあると、ボクも同様に、どのように表現しようかと困りますよね(汗)

単純にセリフで「すごい!」とか言っても単調だし、小説のように、それがどのようにすごいのかを論理的に説明するわけにもいかないし・・・

そこで、登場人物の「ハク」や「位置付け」を利用して視聴者に説明する方法を考えてみたいと思います。

ここに株式を分単位で取り引きして一日に巨大な利鞘を生み出すデートレーダーの主人公がいるとします。

「今日のアガリは・・・3500万か」

―――こんな主人公のセリフが出てきても、視聴者にはそれが凄いことなのかどうか、パッと聞いて分かりません。この物語で扱われる金額の規模もまだ分かっていませんし、主人公がまったく一匹狼なのか巨大トレードグループなのかも分からないから、この数字を何とも評価できずにいます。
明らかに素人であろう友人が「すごいじゃないか!」と言ってみたところで、主人公が「そんなに喜ぶことじゃねーだろ」なんて言ってしまえば、視聴者は「あ、凄くないんだ?」と思ってしまうかもしれません。

そこで利用するのが、同じく株取引を行うプロフェッショナルを出してくる方法です。

「今日のアガリは・・・3500万か」
「な、何だって! 俺のシグマグループですらアガリ3500って言ったら幹部級だぜ?!」

・・・シグマグループが何なのか、幹部級ってどれくらいエライのかはさておき、なんとなーーーーく、「へえ、凄いことなんだ~」と感じてしまうはずです。
さらに、

「今日のアガリは・・・3500万か」
「3500だって! 俺たちシグマグループ25人でようやく出せる数字じゃないか! それをお前はたった一人で・・・?!」

直接「凄い」とは言ってませんし、やや説明的にはなりますが、やはり凄いことだとは分かり易いかもしれませんネ♪

世の中には、常人から見ると十分に凄いように見えてもその世界ではわりと普通、ということがあります。
たとえば台風の強さなどはまさにそうではないかと思います。

台風がくると強風が吹き荒れひどい雨になります。
おおよそ台風の直撃を受けると「凄い!」と思います。
・・・では、『強い台風』と『そうでもない台風』をどうやって区別すればいいのか、という問題になります。
そもそも台風というものは桁外れに勢力の強い低気圧のことですから、小型の台風だって凄いことは凄いのです。「凄い雨!」「凄い風だ!」といくら言ったって、歴史的な大型台風の説明にはなりっこありません。
TVの天気予報をインサートして「未曾有の大型台風26号は・・・」とさせても良いのですが、何となく客観的で実感がわきません。

そこで、たとえば台風を専門とする老気象学者を登場させて「こんな台風、ワシですら一度も見たことない!」と言わせるとかですね、かつての室戸台風を経験した古老に「室戸台風の時ですら倒れなかった御神木が!」などと叫ばせて巨木を倒してみるですとか―――つまり、その『凄さ』というものを説明できる人物なりオブジェクトなりを複合的に使ってみる手法が有効ではないでしょうか。

スポーツキャスターが「タイガー・ウッズは天才だ!」と言うよりも、ジャック・ニクラウスが「タイガー・ウッズは天才だ!」と言う方が、いわゆる「ハク」が付いて強烈です。
キャスターが事実の説明として「この技を習得するには普通は10年以上の修業が必要と言われています」と説明するより、すでにその技を習得している先達が「私ですら12年かかったところを、彼女は3年でマスターしてしまった!」と言わせる方が分かり易いです。


・・・あと、これはちょっと余談ですが。
最近、PCゲーム関連のお仕事をしている際、この上述の第三者による「私でさえ」流の説明を用いようと努めていたところ、監督さんからは逆に「主観的な言い方で何となく勝手、もっと言えば雰囲気だけで客観的な事実がない気がする」というようなご指摘を受けたこともあります。そもそもが超常現象のファンタジーなのでなかなか客観的な説明というのは難しいと思いますが・・・と言葉を濁して逃げる おおやぎ と、「凄い!」「信じられない!」「とんでもないことだ」とストレートに表現してもらった方が視聴者に易しいとする監督...結局は監督に従いましたが、なるほど世の中にはそういう向きもあるのだということだけは、頭の片隅に入れておく方が良いと思います^^
「適した解説者」とは書きましたが、確かにそのような人や物からの解説ですら説明的すぎて適さない場面もあるはずですから。

初出 Mixi 拙連載より 2009.05.15
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by genmuki | 2009-05-27 10:42 | シナリオ小話

シナリオ小話 第62回 受け答え

以前にも何度か触れてきた話題でありますが、そもそも脚本におけるセリフの応酬で、実に当たり前の「受け/答え」の形になったのなら、『あれ?これで良いのかな?』と感じるクセを付けるのがよさそうです。

というのも。
つい最近の出来事ですが、ある短編映像の脚本で、監修さんから「視聴者に分かり易いよう、リアルな会話として成り立つ形にして下さい」と注文を受けました。
「それは英会話ゼリフを書けということではないですよね?」と念を押して執筆に勤しんだのですが、出来上がった劇では、脚本家が脚本には記さなかった範囲で、いちいち「はい」とか「いいえ」とか「そうですね」という相槌が入っていました。なるほどコレは意味が分かり易い。
―――これは監修さんか演出さんかのどちらかがそのように書き換えられたか実地でそのように演技指導なさったせいかとは思いますが、この短編の映像が初公開以降、視聴者から「まるで言い含めるような表現で不快だ」「テンポがワンテンポずつズレている」との厳しい評価を受けてしまいました。

・・・さて。
これも以前からの記載になりますが、果たして我々は日常的にそれほど正確に相槌を打ち、いちいち返答して会話をしているでしょうか?
―――つまり、“分かり易く”“一般的な会話を意識する”ことは、むしろ紋切り型の『受け答え』をしないことにあります。

この場合、監修された方が勝手に脚本をいじったり演出したりしたことが第一義の原因なのではなく、私の書いた会話の内容がやや困難であったせいだと考えます(猛省)。
しかし、視聴者さんがわざわざメールなりBBS等への書き込みなどで表明されるように、この映像は実際に退屈な劇であったのでしょう。
この評価を見るにつけ、もちろん脚本は意味が分からぬばかりの応酬ではいけないけれど、正常だと思える受け答えや丁寧な往復ゼリフほど空虚なものもない、という証左ではないでしょうか。

どれほど説明的で/どれほど飛躍的なのかは、作家それぞれの個性であり作家による独自のリズムやテンポでありますが、「分かり易い」ということと「退屈」で「テンポが悪い」こととは別問題のように感じます。
文字で読み返して『うん ちゃんと受け答えしているヨ』という作劇は、実は非常に退屈なものなのかもしれない、ということを常に意識したいものです。
もし脚本を書いていて、「はい」とか「いいえ」とか、意味性がはっきりしているわりには感情のこもらないセリフをいちいち書いているとすれば、『あれ?これで良いのかな?』と感じたいものです。
―――こういったセリフを1行書いた時点で、実は我々は、意外と非常に安心しきっているものですから。

初出 Mixi 拙連載より 2008.12.20
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by genmuki | 2009-03-05 15:12 | シナリオ小話

シナリオ小話 第61回 擬音

今回は、知り合いの学生さんにご質問を頂きましたので、「擬音」の取り扱いについて考えてみたいと思います。

そもそも結論から言うと、シナリオに擬音を書く機会はありません。音というものは人物の行動や情景から必然的に発するものであって、このことを利用している例は多くありますが、実際の脚本の中に「ドカッ」とか「チュンチュン」といった「擬音」そのものを書き込むことは皆無です。
しかしご質問は、たとえばある鳥の鳴き声を聞いてそこにその種の鳥がいることを察した場面ではどう書くのか?といったことでした。その場合は「○○の鳴き声が聞こえる」とそのまま平たく書いて良いと思います。
その他にも、ミステリー物なんかでは「誰某の足音だけが響く」とか、「何かが床に落下する音を聞いた」と書けば良いかと思います。

「思います」というのは、実はボクも明確な回答を持っていないせいです。
ボクが知る範囲での教本で、音の表現について脚本でどう記すべきかを説いた本をまだ知りません。ですのでここは脚本の本義に戻り、それを読む監督や演者、編集さんや撮影さんや音響さんに物語の中の出来事が伝わるように書けばよろしかろうということです。

もうひとつの側面として、擬音が文字や装飾文字・記号として表現されるマンガや、文字で表現するノベルゲームのような場合、確かに文字で表現するのだから「ドカーン」とか「バシッ」とか文字で書くことはあります。しかし脚本では基本的に文字を画面に出しません。
ですから、脚本家が「ズギャズゥゥン」とか複雑な擬音を脚本に直接書いたとしても、それは最終的に音声さん・音響さんによって処理されるため、その文字表現の正確さは問題になりません。
このことから、音を「擬音」として表現する必要性や厳密性はほとんどないと思って下さい。

「擬音」ではなく実際に「音」としてなら、やはり「○○の音がする」「○○な感じの呻き声が聞こえる」と書いてよいと思われます。よりその音の詳細について脚本家側にイメージがあるならば「大きな音」「重い音」「鈍い音」といった風に修飾しておけば良いのではないでしょうか。
効果音の分野に関しては、音響さんや音声さんがまた独自のプライドを持ってお仕事されている分野なのでそれを尊重するに越したことはありません。その一方で、やはり脚本家として意図するドラマを成立させるのに重要な音なのだという部分ではきちんとそのことを脚本に書くべきです。

以下はひとつの小手先のテクニックとして提案します。
脚本の柱やト書の中に、「広い原っぱ、秋、虫の音、風の音」といった具合に書くとまるで指示書のように見えてしまうので、「虫の音に満たされる秋の原っぱに風が吹き渡る」のように文章として書く。結局は同じ情景について書いているに過ぎないし、音の風景を中心に構成したいという脚本家の気持ちの現れとしてはやや後退してしまいますが、こういったソフトな書き方をしておいてあとはお仲間に読み取って頂こうというのも脚本家らしい気の遣い方ではないでしょうか。
脚本の読み手である各スタッフさんに情景を共有してもらい、音声さんや音響さんにもそのシーンの音をありありと想像して頂くように「音」を処理するのも、ちょっと賢い脚本家の所作かもしれません♪

初出 Mixi 拙連載より 2008.09.04
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by genmuki | 2009-02-12 16:25 | シナリオ小話

シナリオ小話 第60回 文字でしかない -脚本家の気構え-

拙連載「シナリオ小話」も第60回です。
今回60回目は特に記念ということなく、脚本家としての初心に戻って考えてみたいと思います。今回のお題は「文字でしかない」です。ただしかなり精神論でエッセーです^^;

さて。言うまでもなく、脚本家の書くシナリオというものはただの「文字」です。しかもそれは何度も申し上げているように、映像のいち素材に過ぎません。
文字を媒体にして脚本や、あるいは小説や漫画を書いておられる方ならすぐに分かる通り、「文字」には音やニュアンスが伝わりにくいという最大の欠点があります。特に方言の表現や、感動詞・間投詞、あるいはそもそもの語勢や語尾の抑揚・大きさ・語気といったものを「文字」に表現するのは不可能です。
そのために我々脚本家は「こら」や「こら!」や「コラ」「こらッ!」「こらあ!」「コラあ」「こらァ」「こら~」「こらーー」と様々に表現してみるわけですが、経験ある脚本家の諸兄ほど、こういった文字表現の工夫すら空しいと思われるのではないかと思います。
やはり原点に戻って考えてみると、脚本・シナリオといったものは題材にしか過ぎず、台本でしかありません。

逆に、是非ともこれからの若い脚本家の方と、あるいはこれを演じる役者・演者の方々にはこのことを分かっておいて頂きたいと思うのです。

―――どんな脚本も、その文字を書いた脚本家とは別の何者かが読んで理解した上で演じるならば、その言葉は彼(演者)のものである。

ということをです。
残念ながら脚本家は物語を成立させるために題材とその具体的な展開方法を提示しているに過ぎず、舞台に上がることをしません。
(もちろん例外はあり、監督で脚本で主演といったこともあります。もっともその場合でも、1人15役でいることはできませんが)

ならば脚本家は、積極的に、役者による「再構成」を期待するべきです。
自分の書いたセリフやト書における一言一言・一挙手一投足が、まさに「文字」で描いたそのままにフィルム上に実現すると考えるのはおこがましいことです。
逆に私などは、『きっとこの辺りのニュアンスは役者さんが趣き深く演じて下さるだろう』と投げてしまうこともしばしばです。・・・だからこそ、ある意味でセリフの内容に困ったら「あ・・」とか「うん・・」とか書きます。実際に皆さんの生活の中で、このように意味のないセリフは多いと思います。「うん」がいくつもの意味をなすことを知っているならば、実にずるい言い方ですが、これを役者に託することができます。

とどのつまり、脚本家の書く物語を無視して舞台や映像を作ることはできないでしょうが、反面、この「文字でしかない」脚本のセリフの内容などは役者によって何とも良いように常に裏切られるものなのです。この覚悟がないのであれば、脚本家などやめるべきです。小説家におなりなさい。もっと言えば、画家になればよいのです。集合芸術の名を冠する映像脚本家でいる必要などありません。

ごく単純に言うなれば―――“誰かが演じるための台本・材料に過ぎないもの”を書くつもりがないなら映像脚本家など目指すべきではありません。
脚本は演じられて初めて日の目を見るものです。誰かが“勝手に”理解して変更し、誰かが常に変容させるものです。きっとそれでは我慢できない方は脚本家と同時に監督や演技指導にまで回るのですが、純粋に脚本家として考えた時、やはり「脚本」は「他人に託すべき素材」に過ぎません。とても残念なことですが、脚本として書いた「文字」などにドラマの「全て」はありません。

脚本家に求められるものは、物語やドラマの全てを把握している全知の知能と同時に、それを他人に託すことができる「寛容性」です。役者さん・演技指導さん・監督・演出さん・編集さん・その他の映像に関わる全てのスタッフに任せる「いい加減さ」であり「謙虚さ」です。
繰り返しになりますが、それができないのであれば脚本家などになるべきではありません。
これとは逆に、自分にはできっこない、演技や編集や音楽や音響や美術、そういったことに心から期待し頼るつもりがあるならば、そういった制作の仲間みんなを巻き込む「最初の一石」となる脚本家はきっと楽しいお仕事です。

初出 Mixi 拙連載より 2008.08.21

P.S.
先日、こちらのブログの方もご覧になっている同輩よりご指摘のメールを頂きましたが...
こちらへの「シナリオ小話」連載は、Mixiで連載しているものの転載になりますので、初出より時期的な隔たりがあります。
そのため、Mixi上でのコメントによる間違いの訂正などは修正した上で転載しておりますが、その旨は書いておりません。悪しからずご了承下さい^^;
先だっての連載59回は2008.07.17に初出、50回は2008.05.21に初出の、それぞれの内容を転載しておりますので、Mixi上のメッセージおよびメールでちょうだいしたコメントとご指摘の内容を盛り込んだ内容としてこちらに掲載させて頂きました♪
こちらのブログではコメント不可としてあるのは、Mixiにて掲載後に半年近くの時間があるので一応の・・・無責任宣言ですみませんが、何ヵ所にも転載してありますので管理し切れないからです、すみません><;
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by genmuki | 2009-02-04 05:12 | シナリオ小話

シナリオ小話 第59回 具体例の点描

第59回の今回は「具体例の点描」と題して脚本表現の中でも特にドラマ表現について考えてみたいと思います。
結論から言いますと、映像シナリオ上の物語は全てが「具体例」の「集合」から構成されなければならないということです。
これはどういうことかと言うと、具体的な事象を何度も何度も繰り返さなければならないということ。―――実に当たり前のことです。
ただ、このことは割と手間がかかります。いちいち手を付けなければ何も具体的になりませんし、その上、適した具体例を幾つも考え出さなければなりません。さらにその配置の妙にも心を砕くことになります。

盲目の少女が主人公なら、この人物が盲目であることを具体的にいくつも描かなければなりません。
「はいどうぞ」と出された湯飲みに手探りをして、道を歩けば杖で触れ損なった小石にはつまずきます。脇を歩く親子が桜の花を見上げて「きれいね~」と言い合う姿を素通りさせ、建物に入って行くにもタッチ式の自動ドアを開けるのに一苦労する。これらひとつひとつの具体的な描写を通じて主人公が盲目であることを視聴者に伝えるのです。
・・・やはり当たり前のことです。けれどついつい、この手間を惜しんでしまいます。書き手は彼女が盲目であることを最初から分かっているので、それをつい当たり前のこととしてすっ飛ばしてしまうのです。
たとえば「はいどうぞ」の湯飲みのシーンだけだった場合を想像して下さい。作者はこのワンシーンを描いたことによって彼女が盲目だと説明したつもりになっていますが、目が見えていたとしても何か他の考え事をしていたせいかもしれないのです。彼女が杖を突いていたとしても、足が不自由なせいかもしれません。その杖が明らかに視覚障害者に独特の杖だったとしても、一般人は杖の種類でその人が全盲者であるかどうか即座に区別が付きませんから、正確に『彼女は盲目である』ことまでは分かりません。

彼女は恋人と離れ離れになってしまい今も淋しい思いをしているのだ、という場合。
彼と昔にやり取りした恋文なんかを大事そうに読み返したり、机の上の写真立てに見入ったり、ちょうどそんなところに電話が鳴ってハッと慌てて駆け出してみたり、その電話が間違い電話で思わずムキになって激昂してみたり。とにかくこういった表現が幾つも出てくるからこそ、彼女の淋しさ・その心理の重さが伝わるというものです。
私が思うに、脚本でのドラマ表現は小さな小石を幾つも集めて作るモザイク画のようなものかパッチワークのようなもので、赤い石を1つばかり貼り付けたから赤なのではなく、赤やオレンジや紫の石を同じ場所に集めて貼り付けるから赤なのです。

この「具体例」羅列や列挙は、やりすぎると解説的になったり説明過多になったりして“くどい”ですし、ドラマの展開速度から言っても転がりが悪くなる可能性はあります。
しかし、じゃあこういった「具体例」の積み重ねをすっ飛ばして何かを分からせようとすると、そもそもそれは不可能になってしまうと思われます。
やはり幾つかの検証できる材料、つまりドラマのヒントが幾つかあって、初めて視聴者に伝わるのです。

最近に限った話ではないですが、特にゲームやアニメ等の若者向け脚本を請け負う際、よく監督や企画さんから聞かれるのが「点々話」です。
私が勝手に「点々話」と名付けているだけですが、簡単に言えば、AだからBで、BだからCで、Dが起こるからEになってFになって、と展開していく筋道のことです。何も間違いではありませんが、いつもやや性急に感じます。
抽象的なイメージですが、A+B+CだからDで、Eに対してFもあったけれどそこにGもあったからHなんだ、といったように、ドラマを転がす際にはややじっくりと進めていきたいものだと思っています。
偶然に繁華街で出会って不良に絡まれているのを助けてあげた、だから彼女は彼に惚れてしまいました、だなんていう場合がそうです。確かにそういう電撃的な一目惚れもあるでしょうが、この彼女が彼に段々惚れていく様子は、やはり幾つかの具体的な事件の中で深めてあげるべきなのではないでしょうか。そうすることが何よりも視聴者には親切なのだと思います。
テストの点数が悪かった少年、これでは小遣いを減らされるなり大好きな野球を禁止されるからと、頑張って勉強します、次のテストでは90点もとって母さんもご満悦です、という場合でも、彼が頑張って勉強している様子は幾つかのシーンに分けて複数入れる方が良いと思います。

推理物ではわざと表現を「点々」に留めておいて、容易に先の展開を読ませない、という手法も考えられますが、やはりこれは例外でしょう。
ニュースなんかを見ていると、「このことについて町の声です」として、少なくとも3人や4人のインタビュー映像を流します。これこそ「具体例の点描」です。たったひとつを取り出したのでは何だか作為的だし信憑性を損ないます。同じことは創作ドラマにも言えて、やはり「点々話」では作者の都合ばかりが優先されていて視聴者が置いて行かれた感じがします。少なくとも3つ、具体例を示したいところです。2つ目までは“線”かもしれませんが、3つも示されると“面”になって伝わると思います。

“くどく”ならない範囲で、けれど手間を惜しまずに、目安としては少なくとも3、4の具体的な描写を用いて1つのことを説明するクセを付けたいものです。あとから削るのはとても簡単だからです。
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by genmuki | 2009-01-28 00:42 | シナリオ小話

シナリオ小話 第58回 段取り芝居

今回もやはり脚本初心者の方を主眼に置いて、「段取り芝居」のススメをしたいと思います。
一般に「段取り芝居」と言うと、月並みで当たり前のアクション&リアクションが続くことを指し、ツマらない作劇・飽き飽きする単調な芝居といった悪い意味で使われる言葉です。しばしば「お約束」だとか「ご都合主義」だとも言われます。
しかし、脚本だけでなく小説やマンガでも、この一種の「お約束」は大切なことなのです。比較的に初心者の脚本や、特に若い方のゲームシナリオやノベライズを拝見していると、やはり「段取り」が悪いように感じています。
ここで言う「段取り」とは、ごく小さなこんなことです。

 木戸をやかましく叩く音が聞こえる。
権兵衛「来なすったかい」
 と土間を振り返る。

―――ただこれだけのこと。“これだけのこと”で、あまりに当たり前のことです。
戸を叩く音(ノック) → そちらを見る → 誰かが入って来る
こういうのが「段取り芝居」です。つまり、シーンを「来なすったかい」のセリフで始める代わりに、木戸を叩く音を入れているのです。この音を聞いたからこそ待ち人がやって来たことが分かるという寸法。
あらゆる部分がこれでは辟易してしまいますが、こういった段取りは視聴者に対してとても親切です。流れがかなりスムーズに理解できます。こんな“ほんのちょっと”の流れを綺麗に作っていくことが脚本ではとても大切なことです。

しばしばドラマで見かける場面ですが、女性にとある手紙が届くといった時、彼女の帰宅シーンから描きます。彼女が自宅へ帰って来て、郵便受けを開けてチラシやらと一緒にこの封書を取り出すわけです。こういう段取り芝居では、往々にしてこの封書の内容が次のドラマに関係するんだろうと分かります。分かるからこそ親切なのです。
路上で男女が偶然に再会する場合は、ただお互いに立ち会って「やァおひさしぶり」では面白くないわけでして、すれ違いで肩がぶつかったりするお約束が単純ではあるけれど分かりやすい。こういった引き出しをたくさん持っていることが大切です♪
誰かがヌッとやって来るシーンでは、彼のことを噂話させておきます。噂をすれば何とやらというやつです。シーンの冒頭で彼がドアを開いて「よォ!」とやって来るよりも強まります。

これはセリフ運びでも同じことが言えます。
「タケシ遅いなァ。何かあったのかなあ」と直接言わせるとかなり安易です。
これを、「遅いなァ」「タケシ?」「うん。どうしたんだろうなあ」と言わせると少しマシです。会話の段取り作りです。
もちろんこんなセリフの運びもやや説明的で退屈ですが、お約束だけあって視聴者にはかなり理解しやすいわけですし、「どうしたんだろうなあ」のセリフに重さが加わります。次のシーンが雨の交差点で救急車の赤いランプが光っていたりするとかなりショッキングです。

こういう具合に、ほんのちょっとしたことをきちんと「仕立てる」ことが作劇ではとても大切なのです。
言いたいことだけを言って走り去るような脚本ではいけませんし、また、ノックをしないでドアを開けるような芝居もいけません。
特にセリフの中で「そういえば」とか「ああ、そうそう」とか「思い出したんだけどサ」なんて言葉が多用されているようであれば、それをもうちょっと自然な段取りにならないか考えてみたいところです。「話は変わるけど」なんて言わせているなら、まさに目的の話題へ段取りすることを考えるべきですね。

この「段取り芝居」はちょっとした手先のテクニックであって、脚本や作劇に慣れて来るともう本能のように自然をこれを書くようになるようです。
比して初心者は、誰かが部屋に入って来るなら場面なら「○○が入って来る」というト書から柱を始めたり、女性同士が喫茶店で話している場面では「そういえば、彼氏の方はどうなのよ?」と切り出したりさせがちです。
繰り返しになりますが、一般的で常識的な「段取り」についていかにたくさんの引き出しを持っているかがとても重要です。
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by genmuki | 2009-01-22 15:52 | シナリオ小話

シナリオ小話 第57回 不正確表現を改める

今回は主にドキュメンタリー映画や報道映像、教養番組などを作る上で、特に構成作家や脚本家が避けるように細心の努力を払わねばならない「情報の不正確さ」「ミスリード」の回避について考えてみたいと思います。
映像というのは今日のメディアで中心的な影響力を持ち、しかもかなり「刷り込み効果」の強い媒体ですから、特に脚本家は表現に気を付けねばなりません。
意図的に事実をねじまげたりするのは言語道断ですが、脚本家が意図せずミスとして結果的に「捏造」を伝えて・書いてしまうこともあります。映像作家としての脚本家は決してこのようなミスを犯してはなりません。

まず、ドラマを面白くするために引用してくる「データ」の正確性を期すことです。
ベトナム戦争を題材にした映画を見ていると、「○○年以降、この地域には○○人の若い将兵が投入され、○○年から○○年にかけての帰還率は○○%であった」といったようなナレーションが入ることがあります。当たり前ですが、この数字がでたらめであってはいけません。
これが小説のような書籍なら「本当かな?」と感じた時点で読者は本を閉じることができますが、映像・特に映画の場合は、この映画を見終わって映画館を出るまで「本当かな?」と思ってもそれを検証する機会がありません。テレビやラジオでも似たようなもので、調べようとしている間にも番組は先に進んでしまいます。ゲームの場合には中断することもできるでしょうが、この「中断可能」かどうかは大きな問題です。中断不可能な体験としての映像では、特にデータの正確性には慎重を期さねばなりません。

次に、「切り抜き」に慎重になり自制することです。
拙連載の初期でも書いているように、映像は「切り抜き」のメディアです。2年間にもわたる長い戦争も2時間の映画に編集しなければなりませんし、10年20年といった主人公の人生ですら1時間や2時間の映像の中で描き出します。つまりシナリオにおけるストーリーは、大半が省略されていることになります。これも当たり前のことですが、小説以上に時間の制約を受けますので、たとえば小説にして全7巻とか全25巻といった長編に相当する映像作品は実質的には存在しえません。
大事なことは、大切な描写を省略してしまっていないかと注意することです。ドラマとしてあまり重要でないことや、人物描写として重要でないこと・本筋に関わりが薄いことばかりを切り出して編集したとすれば、それはツマらない映画になります。場合によっては不公正な内容にもなります。
「切り抜き」は脚本上の非常に重要なテクニックであり、脚本執筆の中心ですらありますが、この扱いが不適切だと、そのシナリオは「捏造だ」とか「偏っている」とか、あるいは「意味が薄い」「ドラマがない」と言われかねません。

さらに似たようなことですが、「偏り」に関しても厳しく自制しなけれななりません。
主人公は“気難しいが心根は優しい男なのだ”と書こうとしているのに、気難しいばかりのシーンが8で優しさを感じるシーンは2という比率であれば、やはり偏りを生じざるを得ません。このことは厳密にはケースバイケースで、8の気難しさがあるからこそ、2で描かれる優しいシーンがより際立つという理屈も成り立ちます。けれどやはり視聴者にとってこの主人公は“気難しい”人物だという印象が勝るのは事実でしょう。
こういった部分も、『自分はちゃんと両方書いたのだから』と開き直るのではなく、きちんと自分なりに検証してみて下さい。主観的な判断に不安なら、他の仲間や上司に読んでもらえば解決するはずです。特にドキュメンタリー色の強い脚本を書く時には要注意です。

他に、表現の正確性を期すことも大切です。
「データの正確性」とも重なりますが、たとえば社会的にセンシティブな題材である病人や障害者を扱う際には、その言動や行動についての描写にはきちんと収集した情報をもとに、できる限り正確に描く必要があります。
たとえば1年前に糖尿病で失明した中年男性が出てくるとします。視覚障害者は視覚の代わりに聴覚が発達すると言われていますが、中年で、しかも失明して1年どころでは聴覚が視覚の代わりになるほどに発達することはありません。こんな人物に「目が見えなくなると耳がずいぶん鋭くなるものでしてね」なんてセリフを言わせればやはり不正確です。
しばしば軍事映画で、その時代・その戦争では軍隊が用いたはずのない最新の強力な銃器を使用していたりするのも、映像を今日的に・派手にする意図があることかもしれませんが、戦争映画としてはあまりにも不正確です。アメリカの南北戦争を映画化しようとするならば、当時の銃兵射撃は横一列に並んで命中率10%より遥かに低い射撃を延々と繰り返していたことを知らねばなりません。銃を撃てば兵士が倒れる、百発百中だ、なんてシーンを描いたのでは不正確なのです。

まだ他にも、ついセリフの中で書いてしまう誤った統計的情報の扱いにも注意したいところです。
五恵子「いまどきの中学生なら誰だってそれくらいもらってるよ」
母「そうねえ、月に5万円なんて普通よね」
父「やっぱりそうなのか、いやそうだろうなァ」
・・・多分、こんな家族のやり取りを真に受ける視聴者はそんなにいないと思います。むしろ金銭感覚のズレた金持ち家族のやり取りなんだろうと思うことでしょうが、ここで脚本家にはふと疑問に思ってほしいのです。―――『本当にこれを信じるお人はいないのか?』『やはりどこかで明確にこの感覚がズレていることは視聴者に知らせておいた方がフェアじゃないのか』と。
セリフややり取りの中で、「この時代には」とか「みんなは」「最近は」「ここしばらくの常識で言えば」「この業界では」等々の言葉が出てくる時には要注意。あまりにいい加減なことを書いてしまっていないか、少なくとも一度は自問してみましょう。

もっと色々と脚本家が気を付けるべき誤解・不正確表現はありますが、今回は思い付く限りで主立ったものだけ紹介しておきたいと思います。
ドキュメンタリーや記録映画でなくとも、戦争・アクション・ファンタジー・ミステリー・恋愛...どんなドラマでも、やはり根底にある表現は正確かつ公正中立でないといけませんよね♪

最後に繰り返しになりますが、絶対に意図的にこれらの取り違えや不正確さを利用してはいけません!
一種の「捏造」を「作家の個性と主張」だと言うお人がいます。確かに作家としての主張/価値観があるからこそ、何をどのように切り出すか・表現するかの選択があるのです。しかし、フィクションであろうがノンフィクションであろうが、不正確で不公平な情報を垂れ流すのはメディアの暴力です。
しばしば報道やノンフィクション作品に関して言われるこれらのことは、フィクション作品でも同じなのです。子供向きゲームシナリオでも同じです。どんな脚本家も、映像作品を暴力に変えてはいけません!
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by genmuki | 2009-01-09 16:31 | シナリオ小話

シナリオ小話 第56回 セリフの誤り2

前回に引き続き、新井一先生の著書「シナリオの基礎技術」から「セリフの誤り」を引用し、簡単な解説を加えて紹介します。
さっそく前回の続きから順に紹介していきたいと思います。

F.抽象セリフ
セリフの中身そのもののに中に「悲しい」「うれしい」「楽しい」「苦しい」「きれいだ」「すてき」のような一般的な感情を用いることを、新井先生はここで「抽象セリフ」とくくり、多用すべきでないものとしています。
これについては詳説を要しないでしょう。人物のセリフが「嬉しいわ!」「なんて悲しいんだ」「きれいね~」「あら、素敵だわ。とっても良いわ」ばかりだと、どう考えたって明らかに作劇が手抜きであって面白みも何もありませんからね^^;

実際に作劇され演じられる際のことを考えると、解決策は2通りのアプローチがあります。
新井先生が紹介されているのは、より具体的な表現にすることです。苦心して山頂にたどり着いた登山者に「まァ、素敵!」と言わせる代わりに「空気がおいしい!」と言わせるようにです。どんなにひねくれた視聴者だって、感激した様子で深呼吸をして「空気がおいしい!」と言っているヒロインを見て、「確かに空気はうまいかもしれないが、登頂したって空しいだけだったろう」と思うお人はいますまい。
もうひとつのアプローチとして、主に演者の演技に期待して、あえて主・述となる部分を使わない、つまり省略です。たとえば、「綺麗ね!」と言わせるのではなく「わァ・・・」と感嘆だけさせる。「雪が綺麗よ」と言わせるのではなく「雪・・・」、「海は素敵ね」と言わせるのではなく「海よ・・・」、といった具合です。

G.文章体セリフ
作文や小説を書くかのような文章体や文語的な表現をそのままセリフにしてしまう愚を、このように呼んでいます。
例を挙げてみるとすぐに分かることですが、

「日が没しましたね」 ― 文語的表現である
「出張の準備をしに帰ってきて下さい」 → 「出張の支度をしに帰ってきて下さい」
「変な宗教に加わって」 → 「変な宗教に入って」

どれも日常的な会話としては不自然なので、より口語的になるように、あるいはそれぞれの人物像や時代観に合うようにしなければなりません。例外として、政治家が政見演説をする場面や法廷における判事の言葉、あるいは個性としてそんな話し方をする人物が存在することだってあるでしょうが、一般的な現代人が文語的あるいは文章体で喋っているのは不自然ですから正すべきなのですね。
同時に、こういったセリフについては書いている途中では気付かないことも多いので、自分で書いた脚本を「声に出して読み返す」ことが大切だと紹介されています。まったくその通りだと思いますし、ボク自身も自分の原稿を声に出したなら、ば明らかに韻を踏んでいない・息が続きそうもない・耳で聞いてみると文章の構造が分かりにくいといった様々な問題を再発見するばかりです。わかっていてもついついやってしまうこの問題、やはり校正・推敲がたいへんに重要なんですね♪

H.告白セリフ
登場人物が自分のことをしゃべるセリフのことをこうくくっています。そもそもシナリオとは事件事象と感情を交互に繰り返し説明するものですから、「私はこうなんだ」「ボクはこう思っているンだ」と自身に言わせれば、なるほどお話は先へ先へ進みます。しかし、このテのセリフの問題点は幾つかあります。
1には、一般的な感覚として、人が自分のことを自分でしゃべりまくるのを聞くのはそもそも気分がよくないこと。ドラマの定石として、自分のことについて自分自身で多く喋る人物の多くは、自己中心的な人物・自意識過剰・自慢家・自己完結主義・過剰な自信家です。
2には、「セリフのウソ」でも紹介した通り、セリフ(声)に出して明確に述べられる事実はウソっぽいということです。視聴者にとって告白セリフは常に真実性が曖昧な内容にしかなりません。こんな仕立てのセリフばかりで構成される脚本では、誰のどの言葉を信じてよいのかさっぱりわからなくなってしまいます。

これを避けるのは実は簡単で、脚本家初心者でも高確率で回避しているのが(脚本学校の学生の作品をそれなりに拝見してきた)ボクの実感です。
―――それは、他の誰かに言わせることです。

太郎「これでもボクは理科だって得意なンだからね」

と言わせると、確かに事実はそうかもしれませんが、太郎はかなり自慢家に映ってしまいます。代わりに、

謙介「太郎はほら、理科だっていいんだぜ。な?」
太郎「ん、まあそれほどでもないけど」

このようにすると、ほとんどウソには見えません。ちょっと謙遜してみせることから、太郎の性格の描写にもなります。色々な意味で、対話の形を取ると表現の幅も広がるという証左でしょうし、だからこそ太古の昔から、作劇は対話形式によって発展してきたのです^^

I.分裂セリフ
「分裂セリフ」とは、1つのセリフの中に2つ以上の内容が入り込んでしまったものです。
どうしてこれがいけないかと言うと、これはもう間違いなく、視聴者にとって理解しづらいからです。どちらの内容に対しても印象が薄れるだけでなく、このシーンではそもそもどちらについて言いたかったのか、主軸がぼやけてしまうからですね。
特に詳しく扱うまでもなく理解も解決も容易な誤りのひとつです。著書によると、「話は違うが」とか「それはそれとして」「ああ忘れてたけど、あの件」のように前後をつなぐ言葉が1つのセリフの中に入っているようであれば分裂症だと思って改めるべし、とのことです。

J.独(傍)白セリフ
「独白」や「傍白」と言うのは、共に「独り言」のことです。
まずは余談ですが知識として。「独白」とは基本的に独りでいる人物が自分の内面を吐露したり自問自答したりするものです。「傍白」はこれに似ていますが漢字の指し示す通り、「傍(はた)」で言う言葉のことで、誰かを対面している時、相手に聞こえないようにして言う言葉のことです。日本語では「はたセリフ」とも言います。
そもそも根本的に、独り言は不自然なことです。自然と出てしまう「反射」である「熱っ!」とか「痛!」は独り言とは言いません。ギャグマンガを読んでいて「あははは!」のような感情語も独り言ではありません。独白/傍白というのは、有名な「生きるべきか死ぬべきか、それが問題だ」といったものから、「おはようございます部長! 今朝もよいスーツをお召しですね! (横を向いて)似合ってねーンだよ」などの表現を指します。
基本的に使用厳禁といった類のものではありませんが、どう考えたって不自然な表現ですから多用は禁物。そもそもが使用しないべき表現だということはすぐに理解されることと思います。

解決法としては、より自然な対話ドラマの中で同じ内容を消火することです。「似合ってねーンだよ」は、わざと相手に聞こえないように傍白させるのではなく、この部長に挨拶した課長が、続いてやって来た自分の部下に「まったくあの人は悪趣味だな」と言わせたりすると良いでしょう。これでも独白のようで安易ですから、遅れてやって来た部下に「本当にあんなスーツが素敵だと思うんですか?」なんて尋ねさせ課長が「ふんっ」と鼻で笑って見せれば、おおよそ同じ内容/感情が視聴者には伝わります。

K.長セリフ
新井先生もこの項目の冒頭に「長セリフは誤りの中に入るかというと、疑問をもたれる方が多いと思います」と書かれている通り、長セリフに関しては今だに脚本世界でも激しい論争があります。今も脚本家の個性なのだから許容されるべきだとする意見も多く、この「脚本家の個性」「表現手法のひとつ」といった見方にはボク自身も強く賛成します。しかし一般論で言うと、長セリフを多用した作劇はツマらないと断じて良いと思っています。
「長セリフ」とは言うまでもなく、一人の人物が延々と長いセリフをひとりで話し続けることです。今日有名なのが「渡る世間は鬼ばかり」といった橋田先生の作品です。橋田先生がどうして長セリフなのかの邪推の類は本義でありませんので割愛しますが、どうやらご本人が「家事をする主婦がテレビの前にいなくてもセリフでドラマが理解されるように工夫している」と語られているのが主因のようです。

新井先生は長セリフを改めるべき最大の理由として演劇と映像の根本的な違いに着目します。演劇には視界の枠がなく、常に(映像的に)ロングの状態で展開する。また同時に「生」の芸術である。だからこそ、細かい表現方法よりは、感情をうたいあげる形の長セリフが雄弁術として魅力的であり、観客は話術の面白みを楽しんだのである、というわけです。
比して映像は、まず第一に「生」ではないので「生」の魅力を問えません。もうひとつは、映像芸術はリアクションにこそ重点を置くものであり、喋っている内容よりも聞いている方の反応に力点がある芸術なのだという点。なるほどこれは納得できることではないでしょうか?
あるセリフの内容が実は非常にショッキングだったとしましょう。「3月の死者は350人、4月に入ると814人、今月は今日が18日ですでに1134人です」という事務官の報告があるとしますと、「4月に入ると814人」の時点では、この報告を聞く大臣がまゆをひそめる映像が欲しいところです。さらにこのあとのセリフが聞こえているシーンでは、居並ぶ担当者たちがたまらずお互いに耳打ちしたり顔をしかめる映像が欲しいでしょう。
演劇ならば「なんと、それほどに!」とか「これではますます被害が広がると思って間違いないではないか!」といった合いの手も入れねばなりませんが、自由に視点をコントロールして視聴者の感情に働きかける映像ならではの簡潔かつスピード感のある処理を心がける場合、やはりセリフそのものではなく、そのセリフに対するリアクションを映像化するべきなのです。音声で与えられたインフォメーションに対して、視覚で与えられたインフォメーションが相互作用して視聴者に届き初めて意味を作り上げるのが今日の音声付き映像の醍醐味なのですから。

今回は第2回目ということでありこの4つを紹介しました。
おさらいになりますが、もう一度、新井先生による「セリフの誤り」の分類を掲載しておきます。

A.過剰セリフ
B.説明セリフ
C.英会話セリフ
D.性格のないセリフ
  1.挨拶セリフ
  2.職業セリフ
E.過少セリフ
F.抽象セリフ
G.文章セリフ
H.告白セリフ
I.分離セリフ
J.傍白・独白の濫用
K.長セリフ

一般的に映像脚本の8~9割を占めるのがセリフですから、セリフの巧拙は脚本の評価に大きく影響します。
作劇の意図として、あるいは脚本家自らの個性として、脚本の表現にはかなり広い範囲と許容値を認めるべきですが、同時に、ごく一般的な視聴者の大多数にとって、うんざりするもの・ドラマをツマらないと感じさせるもの・ウソっぽいと思わせるもの・退屈なもの・内容が理解しにくいもの、これらは積極的に回避すべきです。
「これぞ我が個性也」と開き直るのは老熟してからの楽しみと思い、やはりまずは一般的な視聴者の感情を大切に、セリフについても避けるべき事象をよく知って脚本の改善に努めたいものです♪
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by genmuki | 2008-12-22 18:01 | シナリオ小話

シナリオ小話 第55回 セリフの誤り1

新井一先生は「シナリオの基礎技術」の後半で、シナリオ診断学と題して主に初心者のシナリオが冒しがちな間違いを統計的に導き出し、どういった箇所に気を付けるべきか/どうしたら改善できるかを分かり易く解説されています。ただ単にシナリオはこうあれば良いと論じるのではなく、実際の生徒さんの作品を大量に分析し、シナリオ執筆人にとって『ああ成る程』と思わされる指摘の多いことが、まさにこの教本の白眉です。
今回はこの教本から「セリフに関する誤り」を紹介したいと思います。

まずはじめに。
新井先生はシナリオ診断学として6323本のシナリオを分析されましたが、結果、シナリオの欠陥を7つに大分類しています。

1.セリフに関するもの 6022
2.ト書に関するもの 4233
3.時間経過に関するもの 620
4.人物描写に関するもの 505
5.構成に関するもの 272
6.場面の描写に関するもの 187
7.一般的な描写に関するもの 99

セリフに関する誤りが見出せるものは全体の95%にのぼり、残り5%は無声映画や映画詩だったので検討の材料にならなかったと言っています。つまり実質100%の脚本でセリフに関する誤り/上手くない点が見出せるというのですから、ありとあらゆる脚本家には精進の余地があるということですネ★

この「セリフに関する誤り」は、次の通り11に分類されています。(それぞれは造語です)

A.過剰セリフ
B.説明セリフ
C.英会話セリフ
D.性格のないセリフ
  1.挨拶セリフ
  2.職業セリフ
E.過少セリフ
F.抽象セリフ
G.文章セリフ
H.告白セリフ
I.分離セリフ
J.傍白・独白の濫用
K.長セリフ

数が多いので2回ほどに分けて連載したいと思いますが、さっそくそれぞれを見ていきましょう。
(純粋な引用ではなく、引用しながらおおやぎの意見や考えも加えておりますので悪しからず)

A.過剰セリフ
新井先生によると初心者シナリオの筆頭に挙げられるものだそうです。「過剰セリフ」とは、言うまでもなく、セリフで表現する必要もない部分をセリフで表現していることや、同じことをセリフで2重3重に表現すること、本筋に関係ないことをべらべら喋りまくる作劇をすることのことです。
著書ではこの原因を大きく3つに分析されています。

1.シーンを書こうとしても場面が思い浮かばない(のでセリフで安定/定着を試みる)
  「お茶をどうぞ」や「なんて汚いんだろう」等の、映像を見れば分かることをいちいちセリフにしないと落ち着かない
2.テーマがはっきりしていない
  このシーンではどういう感情を描かなければならないかが決まっていないので余計なセリフを書く
3.作者の律義さ
  問いがあれば必ず答えなければならないといった強迫観念のために、いちいち重要でない言葉のやり取りが続く
  たとえば「いい天気ですね」で始まる会話の後に一通り天気/天候についてセリフのやり取りを書くといった感じ。律義に受け答えをしていると、いつまで経っても本題が出て来ないで、本当に言わなければならない情報が最後に取って付けたようになってしまう

B.説明セリフ
これは以前にも拙連載で書きましたが、脚本はそもそもト書にしてもセリフにしても説明の連続です。様々な出来事や事象、物や情景の様子や心情などを連続して説明し視聴者に示していくものが劇でありドラマなのですから、一切の説明をしないということは不可能です。ですが、この説明をいかにも説明ですという風に喋っては、それは「説明セリフ」だということになります。
新井先生の例によると「心配だから探してくるわ」の「心配だから」は説明セリフだということです。これを避けるために心配している気持ちの芝居を作るべきだとしています。まったくその通りですね^^ さしずめ、

(ジッと座りうつむいている道子、顔を上げて立ち上がり)
道子「やっぱり私・・・!」
 と、エプロンを外して早足で部屋から駆け出す。

―――こんな感じに、芝居仕立てにすれば解決するでしょう。

C.英会話セリフ
初心者はセリフをまず“言葉のやり取り”であると考えることから生じるのであろう、と分析されている誤りです。

「どこへお出かけですか」
「銀座の方へちょっと」
「お買い物ですか」
「いえ、夫があちらから帰って来るものですからその支度に……」
「ご主人はどちらから……」
「アメリカに行っておりましたの」

・・・このような例が挙げられていますが、説明セリフを会話に仕立てただけの、性格も感情も感じられないやり取りになっています。同じことを会話に仕立てずに1人につらつら喋らせれば説明セリフ、2人に会話させても英会話セリフ―――であれば、さてどうするべきでしょう?
そもそも前述の新井先生の指摘の通り、このシーンを描くことによって何を表現しようとしているのかという作家側の準備が不足しているせいだと思われます。ですからこのようなシーンはそもそも省略してしまって良いかもしれません。夫がアメリカへ出張しているこの奥様が、夫の出張と帰国を周囲に知られたくないだとか、そういった「心情」を表現したいという目的があって初めて、ご近所さんとこんな会話をする必要が生じるのでしょう。

D.無性格セリフ
人間は感情の動物であるという基本を考えた時、感情のこもらないセリフは言わないし、脚本家もそれを書くべきではないということです。特にこれが生じる場面を、「挨拶」と「営業」の場面だと指摘しています。「おはようございます」等の挨拶言葉は数も少なく、ともすれば誰もが同じ言葉を使うことになるので、「おはようございます」「おはようございます」と書いても、この2人の感情や性格を何ら表現しないわけです。
八百屋のオヤジさん奥さんに対してが「ッらっしゃい」と言う代わりに「今、お帰りかい」と言えば、彼女が働きに出ている女性であることが分かりますし、2人は顔見知りでわりと親しいことが分かります。「見ねえ顔だね、大根いいよ」(やや説明セリフですが)と切り出せばこの奥さんは最近引っ越して来たばかりかもしれませんし、八百屋のオヤジは初対面でもなかなか気さくで親切です。「よう。ニンジン今日もいいのにねえ」「いやだわ、もう」なんてやり取りになれば、奥さんか彼女の息子がニンジン嫌いなのを知ってておちょくった八百屋のオヤジのちょっとしたイタズラ感覚が面白いかもしれません。(エロなドラマならなお面白いかもしれませんけどw)
とにかく一つ一つのセリフの中にそれぞれの人物の性格や心情を反映するように工夫することが重要だというわけです。

E.過少セリフ
過剰セリフの逆であるように思われますが、やや違います。喋り過ぎるのに対して喋りなさすぎるのではなく、あまりに淡白すぎたり単純すぎたりして、そこに感情や心情、あるいはドラマが感じられないセリフをこう言っています。

齋藤「ああ、美也子さん、お久しぶりです」
美也子「あら」

・・・このような10年ぶりに再会した恋人同士の会話を例が挙げられています。一見間違いではないけれど、よく考えてみると、この「あら」だけでは半年後であろうが5年後であろうが同じになるからいけない、というのです。10年という歳月にふさわしい作劇を試みよとのことで、

齋藤「ああ、美也子さん」
美也子(じーっと見て)齋藤さん?」
齋藤「お久しぶりです」

このように書き改められています。なるほどと思います。別にセリフを付け足したりセリフを長くするわけではなく、芝居と合わせて歳月を表現する方法を模索しているのです。
どうしてもシナリオの中では「ああ」とか「うん」といった相槌も出てきます。こういった箇所の全てを芝居によって作劇していくと、今度は異様にバタくさい・動作過剰で日本的でない映像になってしまうとは思うのですが、要はケースバイケース、短すぎて感情も性格も事象の正確さも表現できていないセリフがあるとすれば『む?これはどうしようかな』と考えるようになるだけの眼と心構えを持ちたいですね。

この「過少セリフ」でもうひとつのタイプが挙げられていますが、それがト書の中にまぎれてしまったセリフです。

主人「では、気を付けてお帰り下さい」
 といわれて、丁寧に礼をいって去る。

この場合、送り出してくれた主人に対して主人公が言った「丁寧な礼」の内容をきちんとセリフに仕立てねばなりません。
ト書の中で「イライラしながら行く」とだけ書いた時、普通、演者は眉間をシワを寄せてズカズカ歩くくらいしかしません。「何だよもう、この、もう、んぐ、ん~、この忙しい時期に、たく、ん~」のようなセリフ(言いよどみ等はセリフの中に明確に書く必要はないかもしれませんが)を書いておかないと、このように喋ることはありません。
本来はセリフなのに脚本上できちんとセリフとして表現されていないものもまたこの「過少セリフ」に当たるというわけですから注意しましょう。

今回は長くなりましたのでこの辺でおしまいにして次回以降に続けたいと思います。
セリフは脚本の80~90%を占める内容なので、どのようなタイプの誤りを見ても脚本家としてドキリとさせられますね^^; いはやは精進あるのみです。
やはりもっとも大切なのは、脚本家として、脚本を書く時に“目を醒ましていること”ではないでしょうか。いきおいその場で力任せに書くと、ついついセリフは“流れ”ます。自分の書いたセリフのひとつひとつ、その内容と前後関係を吟味して分析・必要に応じて書き直せるだけの技量と心理的な余裕が必要ですが、何よりも自分の書いたセリフが上手いのか不味いのか、それを判断できるだけの“醒めた目”を持ち合わせたいものです。
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by genmuki | 2008-12-16 13:09 | シナリオ小話