<   2007年 11月 ( 5 )   > この月の画像一覧

シナリオ小話 第14回 視聴者のレベル

第14回の今回は、受注でシナリオ執筆を生業としているボクの雑感というか最近とても頻繁に考えるようになったことを記しておこうかと思います。
それはズバリ!「視聴者のレベル」です。
・・・こんな風に書くと『作家の上から目線だ!』と言われかねないですが、誤解のないように...ボクは視聴者を「実はかなりレベルが高い!」と思っているのです。

たとえば、とある小学生・中学生といった低年齢向けビデオの脚本の仕事の際。もちろん教育ビデオではなくエンターテインメント。
監督さんやプロデューサーさんから何度も何度も「相手は低年齢なので」と念押しをされました。
具体的にその時は、シーンの始めに雪山の遠景、しんしんと降る雪、山に囲まれる地方都市を俯瞰するような各種の情景描写、そして登場人物の登校風景へと転んでいく脚本だったのですが、

「低年齢は遠景からの街の描写を理解できません」
「低年齢なので舞台が地方都市であることは重要ではありません」

―――等のダメ出しがありました。こんなのは序の口で、

「低年齢の視聴者は『なんでやねん!』のいきなりの関西弁のツッコミを理解しません」
「相手が低年齢なのでケータイメールでのやり取りは使わないで下さい」

・・・等々、視聴者を意識しての監督のご指摘に参ってしまったおおやぎです。

低年齢の視聴者ってそんなに低能なんですか??

また、最近になるとPCゲーム用のシナリオの案件が最も多いですが、その時におおよそいつも聞かされる言葉があります。
それは・・・

「相手は童貞クンなので、あんまり大人っぽい表現は通じませんから」とか
「あまり女性経験のない視聴者が対象なので、女性心理を語っても通じない」とか...

もちろんアダルトソフトに限った話ではありませんが、たとえば脚本にしてお話ししますと、

和佳子「(黙って見つめ)どうしてよ・・・」
 と、健一の背中にすがりつき、
和佳子「どうしてそんな風に言うのかなあ!」
 と、鳴咽する。

こういうシーンがアドベンチャーゲームの形式であったとして、ゲームなので絵は紙芝居だったとしますが、監督のリアクションは「これでは和佳子が健一のことを好きかどうか分かりません」と来る。おおよそ「私は理解できますが、ユーザーには理解できないでしょう」と付け加えられる。

ゲームのユーザーってそんなに低能なんですか??

他にもゲーム(特に文字で見せるアドベンチャーとか呼ばれる分野)では納得いかない表現が目白押しですね...

丈一郎「俺、行かなきゃ!」
 と、走り去る(ここで走り去ることを音で表現、画面は暗転)

―――こういった記述に対して、「俺は~~に向かって走り出した」とか「丈一郎は~~を飛び出した」と文字で表現して下さい、と来る。
映像でそういった文字による説明は存在しないので、これはむしろ小説に近い表現方法を持つ読み物ゲームならではの要求なのであろうということは理解できますが、絵もあって音もあって音楽もあるゲームなのに、どうして文字による補完が必要なのか、最初は戸惑ったものです^^;

おおよそ多くの商業シナリオは、特定の視聴者層を意識して作成します。
関西の番組でバラエティドラマの脚本を担当していた時、おおよそ関西圏のコメディアンのギャグのパクりや古典的な落語の引用などはイキでしたが、関東での低年齢向けビデオ作品ではドリフターズの有名なコントの引っ張りはNGでした。それは視聴者が違うから必然と言えば必然なのですが・・・果たして、世の中の監督と呼ばれる方々の思い描いておられる「視聴者のレベル」は低すぎやしないのか。

今、子供向けとされるアニメ映画作品の多くは『大人が見ても感動する』と評判です。
PCアダルトゲームの視聴者は、本当に童貞なのでしょうか? 本当に恋愛経験の少ないお人たちなのでしょうか?

商業ライターである限り、監督・クライアントの要求する脚本を提供することが第一であると考えておりますので、言われるがままに脚本を脚色し調整する自分を恥ずかしいとは思いませんが、今、実際に「子供」のドラマ離れが言われています。また同時に「大人」のゲーム離れが言われています。
アドベンチャーゲームという分野が初期のパソコンで始まった頃、それは想像力が豊かで人生経験・経済力のある大人の遊びでした。(そもそもパソコンが高かった)

脚本家の先輩ならびに同輩に、僭越ながら声を大にして申し上げたいのはこのことです。

視聴者ってそんなに低能なんですか??
[PR]
by genmuki | 2007-11-28 20:51 | シナリオ小話

シナリオ小話 第13回 冗談

13回目の今回は、まさにシナリオの専門的な内容から離れて気楽にいきましょう♪
―――ということで、「冗談」を盛り込もう、といった内容です。

以前に専門学校でシナリオの授業を教えたり、同業の映像脚本家がシナリオ学校で教鞭をとっていた関係上、一時期、シナリオを学ぶ若いお人たちが「脚本を見てくれ」「添削・寸評をくれ」とのことで、しばしばボクの自宅へ脚本を送って来て下さったりしました。
もちろん勉強中の方々の脚本には様々なところで甘い部分・技法的に不足する部分が目立つわけですが、もう一つ気になっていたのが、いわゆる「冗談」「冗長な部分」「余裕」がないことでした。
描こうとする題材や、各場面で論じるべき会話の内容を決め、できるだけ時間の尺内に納まるように努力していることの現れでしょう。
しかし、登場人物に一言くらい冗談を言わせても、実際に映像の時間がそれほど長くなることはありませんから、映像の緩急といった視点からも、仕立て劇の中に冗談を盛り込んでいくようにしたいものです。

ここで言う「冗談」「余裕」は、必ずしもギャグやジョークではありません。

焦っている人物が部屋を飛び出していくシーン。

悟、手早くジャケットの上着をひっつかんで、
悟「い、行ってきます!」
 と、勢いよくドアを開いて走り出して行ってしまう。

このシーンに、ほんのひとつの「冗談」を放り込みますと効果的です。
たとえば―――

・悟、ドアノブを手でつかむがドアを開け損なって身体ごとドアにぶつかってしまう。
悟「あだだだだ・・・。い、いい、行ってきます!」
 と、ドアを開いて走り出して行ってしまう。

古典的なドタバタですが、より焦っている感じも与えるし、ドラマが深刻になりすぎない。
もちろん、本当に深刻なシーンではこのような「冗談」を盛り込むべきではありませんから、ケースバイケースです。

桜「お、おはよう!」
光江「桜さん、おそよう」

こんなのも一種の言葉遊びです。「お早う」に対して「遅よう」なんて言葉はありませんが、おおよそ意味は通じます。普通に「早くもないわよ」とか「遅刻ね」と言うよりは、短い言葉にピリリと皮肉が効いて面白いかもしれません。

そもそも、ボケ&ツッコミのような仕立ては日本の関西独特のものではなく、古典英語劇にすら存在する典型的な「冗談」ですから、積極的に使っても面白いと思います。
印象的だったのは、木村拓哉さん主演の人気ドラマ。木村拓哉さんのどこかスカした人物像にマッチするのか、彼はよく慌ててマヌケな行動を取るヒロインに対して「なんでそーなるよ!」とか「って、どーして!」とか突っ込んでいましたネ。
これらを全て「視聴者を選ぶ関西のボケツッコミだから」という理由で排除してしまう必要はありません。

映画「沈黙の戦艦」などで有名なスティーブン・セガールや「プロジェクトA」などのジャッキー・チェンの演じる、息つく暇ないアクションの随所にも、観客がニヤリとするほんの一挙手が上手に混じっています。
相手の顔面を殴ろうとしたがその頬には血が付いていたので、途中でやめて腹を蹴ったとか、手に取ったリンゴを裏返してみると誰かの食べかけだったので顔をしかめて肩越しに捨てたところ、背後から襲いかかろうとした悪漢に当たった、だなんてものは、一見するとコメディ、下手をするとドリフターズのコントですが、長回しのアクションシーンや、ゆったりした流れから動きの多い流れへの転換として、上手に利用されています。
本来はこのようなチョイの動きは演出家さんや監督さんが指示をされるのかもしれませんが、舞台での人物のドタバタとオーバーアクションを映像に持ち込んで成功した三谷さんの例もありますから、脚本家がこのような「冗談」に通じていてはいけない道理はありません。

「冗談」を繰り返すとドラマの転がりが悪くなりますが、ほんの一幕、あるいはごく一息、ひとつの「冗談」を放り込むことは、映像ドラマをずっと生き生きさせてくれると思います。
万が一これらがないならば、そのドラマは用件ばかりを早口で伝えて去っていくだけの丁稚みたいなものになります。優れた営業マンは時節の挨拶もし、冗談も言い、お世辞も言い、そしてきっちりと営業をして帰っていくものです。

少し余談になりますが、この前、脚本家の先輩と電話で話した際、東京都のある区の教育委員会から道徳などを教える際の教材ビデオに関する依頼が来ているとのことでした。教育委員会の話では、区の作成したビデオに対して「生徒がまったく興味を持たない・見ない」といった苦情が相次ぎ、学校が購入したがらないそうです。
先輩いわく、「それもそのはず。生徒と町のお年寄りとの会話にしたって、実に教育ビデオらしい生真面目な問答になっていて、エンターテインメントの欠けらもなくドラマですらない。大人でもうんざりの余裕のない議論映像なんか、ましてや子供が興味を持つものか」と。
同じ風土の歴史を紹介するビデオでも、秀作と言われる物には、生き生きとした会話の様子や、人々が交わし合う冗談、少々滑稽で優しいナレーションといったものがあるそうです。
ボクたち映像脚本家も、評論文でも書いているつもりで作劇した生真面目な脚本には誰もがうんざりである、というこの事実を胸に留めなければなりませんね^^
[PR]
by genmuki | 2007-11-21 22:52 | シナリオ小話

シナリオ小話 第12回 分からないことは分からない

さて今回は、詳細な技法の問題から少し離れて、比較的大雑把なことを話題にしてみたいと思います。
今回は「分からないこと」と題しましたが、より専門的に言えば「想像のための余裕」であるかもしれませんし、「述べなくてもよいこと」であるかもしれません。
というのも、拙連載の最初の方で「説明の過不足」――特に「過分な説明」はいかんとしました。脚本のテンポを悪くし、ドラマへの理解や没入感を薄めるからです。
・・・であれば、結論から言いますと、ドラマは「分からないこと」の連続なのです。それは限られた時間内に、限られた視野の中で描くからです。
誤解を恐れずにズバリ言うと、「分からない」からドラマなのだし、「分からなく」て良いのです。

人物を説明する時、たとえば、どうしてその人物が大食らいであるかなど説明する必要はないのです。
もっと言えば、大食らいなんだから大食らいなんです。
この人物がどのような経緯を経て大食らいになったのか、それが過食症という一種の病気であり、ではこの人物はどのような経緯でこの病気になったのか、と説明することはあるでしょう。
それがドラマであれば描く。ドラマでなければ描かない。

最近、このような経験がありました。
とある脚本の中で、ある細い女性を登場させ、見た目に合わずに大食らいで、いつも食べ過ぎてしまう、という一面を描きました。それを見て、周囲の皆は「人は見かけによらない」「ひ弱だと思ってたけど本当はいちばん頑強なのかもしれない」といった旨の話をします。
ボクとしてはただそれだけのことだった。弱々しいイメージの実に真面目な女性であるけれど、実はそんなちょっとしたマヌケな一面を持っている。単にそれが面白かろう。周囲の人物らにとっては、そんな彼女の『意外な』一面を見て、微笑ましかったり、彼女のことをより知る機会になる。そんな様子に好感を覚える人物もいる。それだけの一幕です。
しかし、監修される方から疑問と修正の声が入りました。
いわく、「彼女が大食漢である必然性、その経緯とその理由が、彼女の既存の性格描写や言動から想像できない」ので「理解できない」から「削除するように」との、どちらかと言えばキツい言葉でした。

さて・・・

「想像できな」くて「理解できない」ということが「削除」に相当とするこの判断、まさに笑止です。これでは、「意外」といった言葉は脚本の中に存在できないことになる。
シナリオは分からないことだらけだからです。その中で、できるだけ一般的に「何となく分かる」といった記号性を集めて、ボクたち脚本家はひとつひとつのやり取り・会話・行動を描写していきます。
視聴者の想像力と理解力というものを信じる時、いかなる表現もおおよその範囲は許容されるべきです。
たとえば、「部類のバナナ好きな大統領」といっただけで、何かを想像してニヤリとする。別に彼がバナナ農園の出身であることでもなければ、バナナに性的な記憶を重ねているわけでもない。たんにオヤツとしてのバナナを愛するばかりの大統領。大統領になってもっと上等なオヤツも食事も手に入るであろうに、バナナが大好きでバナナに目がないなんて、何だか子供っぽいなと思わず苦笑してしまう。ただそれだけの話なのです。

映画「ロッキー」において、バルボアがボクサーになった理由など、視聴者は知らなくてもいいのです。劇中、どうして自分がボクサーなのかなんて、説明して欲しいとも思わない。「俺にはボクシングしかないんだ!分かるだろう?」と彼は語る。
「どうしてボクシングしかないの?価値観が偏狭なの?父親にボクシング以外の生き方はしないと誓ったのか?父親はどうしてそんな約束させたの?そんな約束も今も守らなきゃいけない理由なんてあるの?」・・・どこに、そのように考える視聴者がいるでしょうか?

ここで、とある小説の幾節かを引用してみましょう。

『バン、という大きな音が法廷内に響き渡った。俺が手のひらを机に叩きつけた音だ。』

『携帯に登録してある別の番号を呼び出す。まもなくプルルルルルという呼び出し音が響いてくる。……出ない。』

ある大手出版社のコンテストで準入賞だった作品らしいです。
はっきり言って、このような表現を脚本家が同じように考えていれば、その脚本家には仕事がありません。小説家では事情が違うのでしょうかと甚だ疑問に思う作品でした。(苦笑)
自分の書いた「バン」というオノマトペが、どこで鳴り、どのように鳴り、その音がどうして鳴ったか、説明しなければならなかったのだろうか?
携帯電話で電話をかけようと発信した時、プルルルという呼び出し音が鳴ることを知らない読者はいるのだろうか?

いいですか? ―――
脚本に然り、小説に然り、映像に然り、図画に然り、「分からない」ことなど放っておきましょう。

少し前に、コメディ要素のある脚本の中で、朝のコーヒーに茶柱が立つといったシーンを描きました。
直後、主人公の靴ひもは左右ともに切れ、黒猫13匹を目撃し、鴉の集団に遭遇する。さらに、都会なのに牛の糞を踏みそうになり、サーキット場への道で迷子になったレーサーのバイクに衝突されそうになり、ジャケットのボタンが一度に4つも取れ、ようやく学校に到着といったシーンを考えたわけです。
監修される方が言いました。「コーヒーに茶柱が立つのはありえないので、隣で○○子ちゃんが日本茶を飲んでいて、彼女がイタズラで混ぜたことにして下さい」と。
―――もしそうだったら、
「左右同時に靴ひもが切れることはありえないので、ずいぶん長い間、この靴を履いていることを説明して下さい」
「黒猫13匹は異常な数字なので、近くに最近捨て猫が多いことを述べて下さい」
「鴉の集団に遭遇することはまれなので、その日は生ごみの曜日だったことを語って下さい」
「都会なのに牛がいるのは変ですから、運搬中のトラックが事故っているところを描いて下さい」
「レーサーが迷子になるとは思えないので、彼が新人であまりにも緊張していたことを言わせて下さい」
「ボタンが4つも一緒に取れることはほとんどないので、ジャケットは古い物で手入れ無しに着ていることに言及して下さい」
・・・このようになってくるのでしょうか。正直、この感覚にゾッとしたので、玄関を出たところ「今日は何かイヤな予感がする」と言わせました。それでOKだそうです。
「ワケが分からないからこそ不吉な予兆」というコメディ、これは一種のジョークなのですよ?と問うたところ、「それは理解している。けれど、本来起こりえない不可解な事実を描いた際にはその理由というものを見せておかないと、視聴者は理解できないものなのです」とおっしゃっていました。

ドラマは説明文ではないのです。脚本は何がどのように起こったのかを詳細に解説する文章ではない。
いいえ、これはウソです。
小説は状況と行動の説明の連続です。
脚本は俳優の行動を列記した台本です。
しかし、真髄はそこにはない。込み入った「理由」だなんてものは「分からないこと」なのだと思ってトバせばいい。そうして、視聴者に“任せ”ればいい。

時々、作者自身でも「分からない」ことを書いていいのです。
少なくともボクは視聴者として、その「分からないこと」を自由に想像して感動する権利を享受するのです。
[PR]
by genmuki | 2007-11-14 12:50 | シナリオ小話

シナリオ小話 第11回 名前

前回の「無言」に続き、「無言」に次いでよく使われる「名前」について言及しておきましょう。
ここで言う「名前」とは、セリフで相手の名前を呼ぶこと。つまり単純に「先生!」とか「あなた!」といったセリフのことです。

結論から先に申しますと、セリフは簡潔であるべきとの先人の教訓の中で、しばしば「ドラマの最重要なワンショットでは名前を呼ぶだけでよろしい」と言われる通り、「無言」と並び立つ簡潔かつ印象的なセリフ回しの一つが「名前」です。ボクもまったく同意見です。

さっそく一つの例を見てみますと、

さゆり「待って! 健也、行かないで! お願い、待って!」

こういう風にセリフを組み立てるとなぜか白々しい、ということは何度も述べて来た通りで、

さゆり「待って! 健也・・健也・・健也・・」

―――このように名前を連呼した方が、感情がこもるわけですね。というのも、これは実は脚本の都合・出来というよりも、演じる俳優・声優さんの方の都合と言うことができるのではないか、とボクは思うのです。
俳優さんの立場になると、上の例よりも下の例の方が、様々な演じ方が許されるわけです。
「健也」の名前を3回ほど連続で呼んでおりますが―――
たとえば次第に強くしていくならば、溢れ出る激情、昂ぶっていく気持ちや、いよいよと迫る悲壮感を表現することになるかもしれません。
たとえば次第に弱くしていくならば、悲哀に沈み込んで行く心理を表現したり、萎れていく心持ち、もはやといった諦めを表現することになるかも。
はたまた、最初の2回は相手に聞こえぬほどの呟き、3度目こそが絶叫であったのだと解釈すれば、さゆりの中で押し殺そうとしていた忍ぶべき恋心がついに吐露されたといった深みのある演技にすらできるでしょう。
素早く3回その名前を呼ぶならば、それは焦った様子か、あるいは相手を必死に押し留めようとする必死の想いか。

とにかく、名前などというものはあまりにも単純で、それがどのように俳優さんに読み上げられるかによって、初めて意味合いが決まるものなのですから、脚本家としてはなかなかに楽しみなセリフでもありますよね♪
この時、どうしても自分の中で「こう演じて欲しい」と思っているならば、

さゆり「待って! (小声で)健也・・健也・・・・健也ーーー!(絶叫)」

このように書いても罰当たりではないでしょうが...脚本家としては、できればもう少し俳優さんと監督さんと視聴者さんに委ねる心構えを持ちたいものだ、といった印象。

これ以外ににも、ごく日常的な身の回りの風景を見ると、

母「慎太郎、ゴハンよー。下りてらっしゃい」

―――とは言わないとは言いませんが、

母「慎太郎ー」

だけで済ませていることの方が多いのではないでしょうか?

イタズラが露顕して幸次郎が叱られる場面では、

父「おまえは何と言うことをしてくれたのだ!」

―――これよりも、

父「おまえ!」

短くピシャリとわが子の名前を呼ぶ。この方が、少なくともボクなどはいちばん怖い。迫力あるオヤジの顔を想像する。ジッと睨まれると、思わず「ごめんなさい」と言いたくなる。
時代劇で言えば、今まさに刀を抜いて斬り掛かる際には、「きさま!」だとか「てめぇ!」だったりする。
心から惚れた相手には、「好き」と言うよりも、その目を覗き込んで「貫太郎さん!」と名前を呼んだ方が深い。

お良「わたくしは・・わたくしは・・・・ああ、あなたが好きです!」
 と、お良は貫太郎の背に抱き付く。

お良「わたくしは・・わたくしは・・・・ああ、貫太郎さん!」
 と、お良は貫太郎の背に抱き付く。

もし皆さんにお子さんがいらしたら、自分の言動をよく調べてみて下さい。しばしば子供の名前を呼びかけ、子供の名前を呼び付け、叫び、それぞれ、愛情表現であったり躾であったりするでしょう。恋人に対してもそうでしょう。下世話な話、ベッドを共にした伴侶に「好きだ」「愛してる」「幸せだ」と口に出して言うでしょうか。それよりも相手の名前を呼びませんでしょうか。

少し脚本の話からそれますが、日本人・日本語はそもそも「述語」をあまり好きません。
隣で自分の上司が不意に何か失敗・失言をしかけた場合、あなたは「やめて下さい」とか「ご注意下さい」と言うでしょうか。「部長っ」と小声で鋭く言うだけではないでしょうか。あるいは強い抗議を示す場合にも、「もう一度、考え直して下さい!」と言うでしょうか。「社長!」と一声で叫ぶのではないでしょうか。

・・・といったわけで、今回も「無言」の回と同じ結論へ。
前後の関係からそこに深い感慨を込められると考えられる部分には、明確なセリフを書く代わりに、思い切って「名前を呼ぶセリフだけにしてみる」といった工夫をしてみてはどうでしょうか☆
『市民ケーン』『カサブランカ』『嵐が丘』なんかを見てみよう~♪
[PR]
by genmuki | 2007-11-08 19:37 | シナリオ小話

シナリオ小話 第10回 無言

第10回の今回は、シナリオ上で最もよく使われる表現、「無言」について考えてみましょう。

時代的に少し古い脚本家は「無言」をト書きで表現しますし、これより新しい時代の方はカギカッコを用いて「・・・」(中点)や「……」(リーダ)や「―――」(中線)などで表現しますが、これはどちらでも結構です。脚本というのは台本であり、制作者と出演者が理解できればイイのですからお好きにどうぞ♪
―――と、まずは余談でした。

さて、脚本家がわざわざセリフの「間」であるとも言える「無言」を脚本に記載するのは、言うまでもなく、それが脚本家の見る演技の一部分だからですね。

一郎「あれ? 何だっけナ」

というセリフの「あれ」と「何だっけナ」の間にどれくらいの時間を置くのかは、撮影時点で演出家さんや監督さんが指示されればよろしいので、

一郎「あれ?」
一郎「・・・・・・」
一郎「何だっけナ」

あまりこのようには書きません。
対して、一郎と花子のやり取りで、

一郎「きみはサンマが好きだっけ?」
一郎「違ったっけ」

これでは、少し脚本家の意図が伝わりにくいことになりますから、きちんと明記するようにします。

一郎「きみはサンマが好きだっけ? 違ったっけ」

一郎「きみはサンマが好きだっけ?」
花子「・・・・・・(困った顔でうつむく)」
一郎「違ったっけ」

上記のどっちを意図しているのか、きちんと明示しましょう^^
―――以上は、少しお作法的な話でしたね。

「無言」の使い方に決まりというものは特にありませんが、多くの優れた脚本家が「無言」を効果的に使っています。

禎夫「キミは上海に転勤だよ」
亮二「上海・・ですか?」
禎夫「不満かね」

これでもいいんですが、亮二は突然の海外転勤命令に不満であり不安であり、何よりも驚いています、ということであれば、いっそ亮二のセリフは「無言」にしてしまった方が良いと思えます。亮二さんの顔(俳優さんの顔)が画面に映るのは同じことならば、そこを俳優さんの演技力と視聴者さんの想像力に委ねてしまう方が潔いですし、「無言」にしておいても、ごく小さく息が詰まるような声や、生唾を飲み込む演技が期待できます。セリフがあれば、視聴者はそういう小さな演技に目が行きにくくなります。

しばしば思春期の女子校生が部屋の中で一人、大好きな先輩のことを思い出すシーン。

 ベッドにうつぶせに寝そべる良子。
良子「・・・・・・(ニヤニヤ)」
良子「・・・・・・(うーんと考え込む)」
良子「・・・・・・(思い出したように微笑む)」
 と起き出して、クローゼットを開いてハンガーにかかった可愛らしいワンピースを確かめる。
良子「・・・・・・(ニコリと笑って小さく頷く)」

こんなシーンは、無言だからこそ面白いのだと思います。一つ一つセリフに出して、

 ベッドにうつぶせに寝そべる良子。
良子「明日は先輩とデートだわ」
良子「でも、どんな服を着ていけばいいのかしら」
良子「ああ、そうだ。この前、新しく買った服があったわね」
 と起き出して、クローゼットを開いてハンガーにかかった可愛らしいワンピースを確かめる。
良子「そうそう、これこれ。これにしよう」

こんな風にすると、なるほど何について考えているのかはよく分かりますが、本当に面白くない。視聴者の想像をかき立てる要素が何もないし、そもそも非現実的で感情移入しにくい。あなたの回りにそんなに分かりやすい独り言を言うお人がいるだろうか、と考えてみるとしらけてしまいますよね^^;

ジャック「くそう! どうすればいいんだ・・・」
 と呟きながらウロウロと歩き回る。
ジャック「どうすれば、どうすれば・・・考えろ、ジャック。どうすればいい?」
 ジャックは窓の外に非常ハシゴがかかっているのを見る。
ジャック「・・・・・・」

最後が「無言」だからこそ、視聴者もジャックの視点になって「ああ、あれが使えるかも!」と思ったりする。あるいは、彼がいかに機転を利かせてそれを用いるのか、期待がふくらむわけです。

ジャック「あれだ! ハシゴだ!」

―――と言えば、彼がどのようにそれを用いて現状を打破するかはわからないものの、もう彼がそれを使うつもりでいることは分かるので、感動は半減します。

ジャック「そうだ、ハシゴだ! あれを使えば6階へも行けるはずだ!」

―――ここまで言ってしまえば、もう彼がハシゴを登るシーンがあったって、何の感動もない。

一般に視聴者は、登場人物の顔が大写しにされた時の表情を見ながら、何かセリフを言いかけてやめたり、説明が与えられない瞬間、猛烈に想像力を膨らませます。そしてその想像した内容は、往々にして大きく外れることはありません。それほどに視聴者は愚かではないからです。
脚本家の仕事は、視聴者に“自分の語る作劇内容が正しく理論的であることを釈明する”ことではありません。視聴者の理解と想像を刺激し、感動・心の動きを作り出す一種の“お手伝”をしているのです。だから、セリフによって視聴者の想像の楽しみを奪ってはいけません。
だからこそ、ドキドキするシーンの最後の締めくくり、胸の熱くなる大恋愛の締めくくりや、息の詰まる決戦の最後のワンショットは「無言」なのです。
ニュースなどでも時折見受けられますが、実に流暢に解説し論じてきたキャスターが「ん・・・」と口をつぐむ一瞬に、彼の語る陰惨な事件への語るに堪えない深い心情を伝えるのでしょう。
小説などでも、優れた作家の作品を見てみると、意外や意外、主人公の重要な決意や、登場人物の受けるひときわ大きなショックは、セリフでは表現されていません。地の文で「彼はあまりに大きな衝撃を受けた」とも書いてありません。けれど読者はそれまでに人物についての理解を深めているので、むしろ作家が明示しないがゆえに、読者は「彼」が感じた大きな衝撃を当然のものとして受け取り、深く心を揺さぶられているはずなのです。

余談ですが、ゲームには事細かな演技が盛り込まれることが少ないようですので、なかなか「無言の演技」による表現が用いられることがありません。しかし、それは脚本の考え方から言えば正解ではありません。脚本の求める演技を提供するのが俳優であり、ゲームにおいては作画されたキャラクターがその心情を伝えるものでなければなりません。

「無言」の表現は、ひとつの言い方をすれば、脚本家が「視聴者」と「俳優」の両者に“委ねる”決意の現れです。
ドラマの特別に大事なところで、「そのセリフは必要なのか?」と考えるようにし、「無言」で済ませられるようなら、その「無言」が生きてくる場面かどうかを考える、といった習慣を身に付けましょう♪
[PR]
by genmuki | 2007-11-01 19:37 | シナリオ小話