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シナリオ小話 第17回 脇役

17回目の今回は、登場人物の2種分類に関して、特に脇役の描き方を。
多くの作家さんが悩まれるのが、物語作りの初期の部分、企画や構想といった段階ではないかと思います。中には「人物から発想して、彼らの起こす事件を考える」というお人もいれば、「事件や事故を先に発想して、必要とされる人物像を設定する」というお人もいます。しかし、これはどちらも正解かと思われます。
なぜなら番組に出てくる登場人物には2種類あるからで、ひとつは主人公やメインキャストと呼ばれる人たち、もうひとつはサブキャストや、それこそチョイと呼ばれる人を含めた「その他の人たち」です。

このうち、メインキャストと呼ばれる人たちが、事件・事故の度に考え方や主張、感じ方や価値観をコロコロと転換させていては、「なんだ、この頼りないウソつきは」と視聴者が怒ってしまいます。
しかし、もう一方のサブキャストが少しワケの分からないことを言っても、場合によっては単に場を盛り上げるだけの冗談を言うだけでも、「ただそれだけなのか? もっとこの人物についての全体像を描写しようという努力はないのか」と視聴者は考えません。「そういうお人なのだろう」と流してしまいます。
これは「分からないこと」の回でも述べましたが、ドラマの隅々まで同じ番組の中で全てを説明・解釈する必要はないので、後者の人物像は不完全なままにしておきます。
新井一先生などの言葉を借りると『半円形人間』ということになります。

サラリーマンの主人公が急いで出勤する街中、ドンと肩がぶつかっていかにもヤクザ風の男にどやされる。ペコペコ頭を下げて再び走り出す。

・・・この時の「ヤクザ風の男」がどうしてヤクザな道に踏み込んだのか、などは一切解説する必要がありません。舞台が東京なのに彼が関西弁を喋ったからと、ほとんどの視聴者は気にしません。後ほどこのヤクザ風の男がもう1度、夕方に主人公とぶつかる劇があったとしても、やはり重要な役どころでない限りは、彼についての描写は最小限に留めます。

もう少し重要度を増して、たとえば、主人公の侍が橋の下で出会う老人が、主人公の追いかける事件のちょっとしたヒントを供述したとしても、この老人が何者で、どうして橋の下から事件の一端を垣間見たのかは説明する必要がないかもしれません。
そもそもこの老人が何者で、どうして橋の下に住んでいたのかなどは、脚本家が説明しなくても、おおよそ美術さんが乞食風の衣装を着せ、役者さんが乞食風の演技をしてくれます。これも映像では立派な説明になっているので、脚本家がそこまで気を回さなくても大丈夫です。念のために「乞食風の老人」と一言だけ書いておけば、映像では監督が視聴者にわかるように撮ってくれます。(自分で監督して撮るなら、自分が覚えておくだけでいいのです)

最近の脚本の中には、ありとあらゆる人物の外見や性格、ちょっとした口癖や趣味までを事細かに作劇している傾向があります。特に若い脚本家志望者の書く脚本では、一生懸命にそれがなされています。しかし、人物にはメインである人物とそうでない人物があります。作劇内容や視聴者の心理を惑わせないためにも、省くべきは省いた方がよい。

誠「あのジイさん、今日もああしてボンヤリしてるだけか」
 と、公園のベンチの老男子を見る。

もしこんな作劇が、主人公の誠に齢老いた自分の父親を思い起こさせるシーンであるならば、説明ゼリフでない方がよい。老人が画面に映る、それを誠が見る。それだけよいと思われます。老人がどのような人物であるかの解説を与えてしまうと、誠の心理が「自分の父親を想起」から「ベンチの老人へ注視」へ変化してしまいます。視聴者は「あの老人が何か重要な役回りとなるのだろうか?」と思ってしまうから、あまり上手くないのです。

―――けれど、画面にチラリと映るだけの人物が珍妙な格好をしていて、しかも何度も各所で映り込む。視聴者は「なんだあれは?」と思って苦笑する。それもまた面白さのひとつなので、演出や監督を志望するお人には覚えておいて欲しい「ジョーク」のひとつでもあります。

あくまでも、あらゆる無駄を削ぎ落とすのではなく、主人公格の人物が重要なドラマを演じているシーンでは省く。そうではない場面では、「半円形人間」の寸劇もまたおもしろさの要素だ、ということでしょう。
主人公の動きばかりを追っていったのでは、おおよそ視聴者は疲れてしまいます。ずっと本編、ひたすらに本筋、といった具合の映画を2時間も観ることはたいてい苦痛です。今度はこの意味からも「半円形人間」に活躍してもらって、どうでもいい冗談を言わせるなどして場をゆるめることだってできます。

つまり、『どうでもいい人物』を作って、場面に応じてはその人物を半ば以上無視し、また必要があればこの人物に何か気の利いたジョークや皮肉のひとつも言わせる。「場面に応じて」登場させることができる人物というのはこの上なく便利なので、効果的に登場させた上で、扱い方を間違えないようにしたいものですね^^
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by genmuki | 2007-12-19 18:29 | シナリオ小話

シナリオ小話 第16回 前置き

今回は、ドラマはもちろんニュースなど報道番組でよく使われるシナリオの技術ということで「前置き」について紹介、考えてみたいと思います。
しばしば「前置きはイイから本題を言え!」などと言いますが、「前置き」とは一般的に本題の前に置く言葉群のことです。
言葉によって相手の心理を操縦しようという力学が強ければ強いほど、本題よりも前置きの方が重要度を増す場合がしばしば存在します。

有名なシンデレラ、血のつながらない末子と、彼女を軽んじる継母のやり取り。

継母「まったくこの子は。庭の掃除は済んだのかい?」

このセリフの場合、「まったくこの子は」が前置き。本題は「庭の掃除は済んだか?」です。
単に「庭の掃除は済んだのかい?」「だったらお次はお洗濯だよ」と続けるのではなく、セリフの中に、相手に聞かせるでもなく「まったくこの子は・・・」と前置きしているのがやけにいやらしい。「この子はグズだ」とか「この子のことは嫌いだ」と言い切ってしまっているわけではありませんが、ニュアンスとしては非常にこの一言が利いている。

この方法論は昨今のマスコミ(特に報道番組)では大変によく利用(ほとんどの場合は悪用)されています。

キャスター「当番組調査で、10日現在の内閣支持率は33%です」

これが本題だとします。視聴者は「なるほど、33なのか」としか思わない。
「33%に下がりました」と言えば、「下がったのか」と思うし、「33%に上がりました」と言えば、「上がったのか」とは理解できる。しかし、ある事情から、たとえば支持率が回復していることを意図的に隠したい場合、前置きの効用を用いてやればよいわけです。たとえばこんな具合―――

キャスター「相次ぐ大臣の不祥事に辞任、10日現在の内閣支持率は33%です」

こうしてやりますと、前置きに否定的な事柄を述べている分、視聴者は勝手に「33%まで下がった・低迷している」と想像してしまいます。継母がシンデレラに悪感情を持っていると思い込む心理と同じです。
このような報道の際、もしかしたら事実は「相次ぐ大臣の不祥事と辞任があったとしても、支持率は15%から33%まで急激に回復している。これはひとえに国連総会での外交の成功に帰するものでありましょう」かもしれない。けれどそれを言いたくない場合(この場合は報道者が内閣不支持であったりサヨクであったりする場合)、抽出、そして前置きで、視聴者の心理を操縦しようとするのです。

ほんの一言の前置きで、後の本題の意味合いやそれを観た視聴者の感情が大いに変化します。
ある番組で新聞社の論説委員の方が、街頭で行うアンケートでも「前置き」によって回収できる結果をある程度は操作できる、といった旨のことを話しておられました。

質問者「格差是正が一向に進まず、大臣の不祥事が相次ぐ現在の内閣ですが、あなたは現内閣を支持しますか?」
質問者「論客舛添氏の入閣など顔ぶれを一新して再出発の内閣ですが、あなたは現内閣を支持しますか?」

―――この2つの訊ね方の差で、おおよそ10%~15%の数字は操作できるだろう、とのことでした。
(実際に朝日新聞の「内閣支持率」調査は他の新聞と比べて常に10%前後低いですね)

文左衛門「これはいつものお礼です」
 と、小判の入った包みを手渡す。

これだけ書いたのでは、脚本上ではどのようなお礼であり、これがどのような意味のある行為かよく分かりませんが、

文左衛門「くっくっくっ。これはいつものお礼です」
 と、小判の入った包みを手渡す。

こんな笑い声ひとつであっても前置きは前置き。含み笑いをしながら手渡す「お礼」ということで、妖しさがグッと増します。

文左衛門「くっくっくっ。小役人風情に何ができましょうか。これはいつものお礼です」
 と、小判の入った包みを手渡す。

ここまで来れば、もうまさに悪事を謀っている雰囲気が十分です。少し過修飾かもしれませんが、実に妖しさ全開。

妙子「はい、チョコレート」
 と、ラッピングされた箱をぶっきらぼうに健太郎へ手渡す。

妙子「バレンタインデーなんて面倒なだけ。はい、チョコレート」
 と、ラッピングされた箱をぶっきらぼうに健太郎へ手渡す。

こんな妙子の前置きは、少々突っ張った女の子なのか、健太郎の前では素直でいれないのか。そんないじらしさを感じるスパイスになるかと思います。

主にテレビを見る時、キャスターが事実報道の「本題」の前に何を「前置き」しているのか、是非、注目してみて下さい。その「前置き」に隠された意図と、「前置き」を「前置き」として区別して見てみるような工夫もまた、賢い視聴者の技術のひとつです。
同時に、ドラマなどの中でそれぞれの登場人物が、その時の心情やその人の価値観・感じ方に合った「前置き」をしているかどうかも着目すべき点です。
あなたが脚本を書こうとする時、登場人物に「本題」ばかりを喋らせているとすれば、それは少しもったいないことです。本来は「冗長」と思われがちな「前置き」も、実は大変に大きな心理効果を生み出しているのですから。
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by genmuki | 2007-12-13 19:51 | シナリオ小話

シナリオ小話 第15回 リズム

15回目の今回、「リズム」「テンポ」について取り上げてみたいと思います。
そもそも、どの脚本の先人・先達のお話を伺っても、脚本にテンポが重要であることには疑いの余地がないでしょう。セリフのリズム(かけあい)、役者の動き、事件の連続・展開、描写の連続性―――脚本はマンガや小説と違い、時間を逆流させることがありません。
回想シーンや回想ナレーションは存在しますが、それですら「現在」において展開されている時間のひとつと捉えます。
つまり、脚本では、ある記述(セリフや行動)の次の記述は、必ず順番に起こっています。(論説文などではしばしば「そもそも」とか「なぜかというと」と遡って述懐することができます)

・・・と、こんな当たり前のことを念頭に置いて、「リズム」について考えてみましょう。

まずボクがすぐに想起するのが、いわゆる「三段落ち」。
漫才風に言うと、

A「おまえ、将来は何になりたい?」
B「大臣」
A「ずいぶんえらい夢やなー」
B「無理やったら博士」
A「末は博士か大臣か言うもんなァ。それもすごいわー」
B「それも無理やったらニート」
A「ガクッ! それまたずいぶんやなァ。落ちるところまで落ちた感じやでー」

典型的な三段落ちです。どうやら日本人は、2つを並べておいて3つ目にギャップ(オチ)があると心地好いようです。
別にギャグでなくとも、この三段落ちは草子や浄瑠璃でも用いられる脚本技法です。悲恋ならざるや否やといったシーンで、
「あちきが逃げたら」「そりゃァ共に行くサ」
「○○のダンナが追って来ます」「それでも一緒に逃げるサ」
「逃げ切りゃしないワ」「ならばならば、共に死ぬまでヨ」
・・・と来る。女が「どうにもならないワ」といきなり言うのではなく、やり取りの中で三段を用いて、2人の決意のほどと愛情の深さを視聴者に知らせる。これも「リズム」でしょう。
この効能は言うまでもなく、テンポのよいやり取りの中で、順々に観客に知らせていくことです。視聴者にもどこかしら予想が付く。予想が付くからこそ陳腐だとも言えなくはないけれど、やはり「リズム」の魅力があるのでしょう。

光子「今日の晩御飯はカップ麺でよいかしら」
健次朗「おいおい、そりゃあ手抜きだろう」
光子「じゃあしようがない。何か支度するわよ」

こうしてしまうと、何か物足りなくないでしょうか。単純な一往復の何でもないやり取りですが、皆さんの日常のやり取りはこれほどドライでしょうか。
実際に日常会話を観察してみると、おおよそ「よけいな一言」が付いているものです。実はこれもボクは作劇のリズムだと思うのです。

また別の側面。

アルバート「では、今日はこれで。さようなら」
アリス「あら、もうお帰り?」
アルバート「ああ。明日も早いからね」
 と、アルバートは手を振りながら席を立ち、勘定をテーブルに置いて酒場を去る。

アルバートの行動を主眼にする時はここで終了です。キリもよいです。
しかしここで、次のドラマがアリスのシーンならば、あえて脚本家はカメラを酒場の中に残しておいて、

アリス「ふう・・・」
 と、テーブル上のグラスとドル紙幣をギュッと握り取り上げる。

―――この1劇を書いておきます。「リズム」が少し変調し、何か後ろ髪を引かれるような気分になります。
そうすると、視聴者の心理はアリスに近付いているので、次のシーンがアリスの描写であればすんなりいきます。逆にアルバートの映るシーンだと、「おっ、あれれ?」ともたついてしまうでしょう。
彼女の「ふう」という溜め息の1行。それが次につながる「リズム」を決定付けたのです。

ほんの一呼吸を用いることで、一定のリズムを次につなげる。
あるいは、視聴者の理解を助けるために、ホップ・ステップ・ジャンプのタイミングを利用する。
脚本の展開において、随所にこの「リズム」を利用、意識して構成していくことは大変に重要であるように思います。

やはり日常的な生活の中で感じる脚本的な事柄ということで言うと、

妻「ただいま~」
 と、夫の書斎のドアを開く。
夫「おかえり」
 と、夫は振り返らず机に向かったまま。

―――で終わると、いかにも「リズム」が尻切れで“そっけない夫婦”だと言えるでしょう。

妻「ただいま~」
 と、夫の書斎のドアを開く。
夫「おかえり」
 と、夫は振り返らず机に向かったまま。
妻「うん」
 と、微笑んでエプロンを着ける。

こう来ると、“そっけなさ”は緩和されますね。
脚本家が『この夫婦は冷え切っていてそっけないのだ』と書きたいならば、

妻「・・・・・・」
 無言で顔をしかめてドアを閉める。

ここまで描かずに、そっけない「リズム」のまま残せばよろしい。
過装飾にならないためにも、また、視聴者によけいな詮索をさせないためにも、「リズム」をそこで切ることも大切でしょう。

とにもかくにも、人間の人生のごく一瞬、小さな動作、ほんの一言を描く脚本の中では、「リズム」を上手に使いたいものですね^^
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by genmuki | 2007-12-05 21:01 | シナリオ小話