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シナリオ小話 第23回 独り言

今回のお題は「独り言」。―――ですが、ボクが独りで愚痴をこぼすのではなく(笑)、脚本手法上での「モノローグ」「独白」と呼ばれる「独り言」です。
一般に「独り言」は人物の心情を説明する最も安易な方法の一つとして、できる限り回避すべき手法、と見られています。
けれど使いすぎない限りにおいて非常に便利であることもまた然り。要は程度の問題なのです。

 武宏が自室で勉強机に向かっている。夜、時計は2時を指している。
武宏「あーあ。受験生ってツマんないんだよなあ」
 と、鉛筆をノートの上に投げ出して椅子にもたれ、コミックを手に取る。

受験勉強にうんざりしている武宏君の描写です。非常に分かり易い。
けれどこういう「モノ」を使う時、少し考えてみると、セリフの代わりに溜め息で事足りるのではないか。そうすると明確な「独り言」を言わないでもほぼ同様の内容が視聴者に知らされる。
当たり前のことですが、改めて言われるまで意外と気付かないのがこの「独り言」を使っている時。あまりにも便利、劇を仕立てなくても心情が描写できてしまうものだから、ついつい脚本家はコレに頼ってしまうものです。まずはよくよく気を付けましょう。

その上で、「モノ」でなければ明確に出せない緊張感のようなものもあります。
有名な「ハムレット」での悲痛な独白「生きるべきか死ぬべきか」はまさにこの作品の重大なシーンです。
あれは舞台劇なのでTVや映画のようにズームアップが利きませんからこのような独白になったのでしょう。しかし万感こもった「独白」は観客の心にグサリときたはずなのです。

逆に、映画「生きる」では、名優渡邊が夜のブランコに座っているシーンを長回しし、黒澤監督は「生きるべきか死ぬべきか」に似た悲痛な独白を「無言」で描き出してみせました。これには渡邊の名演が欠かせませんが、前後のシーンのつなぎ方もあったからこそ、この夜のブランコがジーンと来る名シーンとなった。だったらやっぱり「モノ」は安易か? ―――ということにはならないでしょう。
さらに逆に、映画「ロッキー」の中で主人公・ロッキーは「俺はやる。俺はやる。俺はやってやるんだ!」と叫びました。完全な「モノ」でしたが、苛烈な彼の決意とその表情、その叫びに、視聴者は思わずゾクゾクと興奮したでしょう。

要はその「モノ」が出てくる時までにドラマがしっかり練られていること、そして、その「モノ」が安易でツマらないものではなく、直感的であってなおかつ重い言葉であることが重要なのではないでしょうか。決して「独り言」の手法そのものが安易なのではなく、その使い方が安易である場合に「安易だ」と思われる。

ボクが思うに、「独り言」の方がむしろすっきりする、ああどうしよう、と悩むシーンはわりと多いのですが、

大倉「今、俺が名乗り出れば・・・」
大倉「・・・しかし、俺には妻子もある」
大倉「・・・・・・」
大倉「だからって、このままで本当にいいのかっ!?」

悩める中年サラリーマン大倉さんの独り言(心情セリフ)です。彼の中の葛藤を描写しています。
会社の部下が大きなミスを冒してしまい、係長である彼はその責任は自分にあると部長の前で名乗り出ようかと逡巡しています。上司の課長は黙ったままです。「誰の責任だと言うのかね!」と部屋に怒鳴り込んできた部長はカンカンです。隣ではミスの大原因を作った直属の部下がビクビクと震えています。失敗した彼が善意から為したことが裏目に出てこじれてしまったことを知るのは大倉さんです。部下をかばうべきだと思っているにも関わらず、名乗り出ることができずにいます。

―――このシーンを、「モノ」を使わずに描写することもできるかもしれません。カメラを大倉の顔に当てて、机上に飾られた家族の写真をシャレードにして、握り締めて震える手を映せばよいのです。
けれど、ふと考えてみると、これを映像だけで表現した時、大倉さんの中にある義憤のようなものは視聴者に伝わるだろうか? という疑問がわいてきます。ただ単に意気地なしの大倉さんという風に受け取られかねないし、卑怯者かもしれない。
だったらやはり、せめて「だからって、ここままで本当にいいのかっ!?」はモノローグでいいのかもしれません。大倉さんが常々から自分の家庭や自分自身について様々な葛藤を抱いて悩んでいるドラマであるならなおさら、この「このままで本当にいいのか」の言葉は幾重もの意味を持つことになって効果的かもしれません。

繰り返しになりますが、「独り言」「モノ」という手法そのものが安易なのではなく、この前後の練り込みの甘さや使用のタイミングの逸脱、手法の濫用が安易なのです。
練り上げて練り上げて、「モノ」で行こう! という箇所ではズバッと「モノ」を言わせてすっきりさせてしまいましょう。何事も使いようです。
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by genmuki | 2008-02-27 20:34 | シナリオ小話

シナリオ小話 第22回 カメラの視点

できる限り映像脚本の基本に忠実に、様々な技法や現象を簡単に解説・考察してみようという拙連載ですが、今回は少し脚本の範疇を離れ、カメラワークについて、特に「視点」について考えてみましょう。
本来、カメラワークで「視点」を作るのは演出さんや監督さん、あるいは編集さんやカメラさん(撮影さん)です。
しかし、脚本家というものは自分たちの書いた脚本が最終的にどのような映像になるのかを考えながら仕事を進めねばなりませんから、カメラワークのことについてある程度のことを念頭に置いておいて損はありません。同じように作劇をする立場でも、脚本・物語作りが演出・作画に直結する漫画家の場合や、脚本に演出の指定や絵コンテまで要求されることのあるゲームの場合では、よりこの「絵面(えづら)の視点」ということを意識することが求められますネ。

「視点」というのは、小説のように「私は」文調のいわゆる一人称・私小説の文体を指すわけではありません。あくまでもカメラワーク。
しばしば刑事ドラマで、拳銃を構えて犯人の部屋に飛び込んだ刑事が、用心深くグルリと部屋を見回すシーンがあります。このようなシーンでは、刑事の視点/視界に合わせてカメラが回ります。撮影現場ではカメラマンが刑事俳優の真後ろに回って一緒に回転することもありますし(背中越しの映像が得られる)、その場にいるのはカメラマンだけということもあります(完全に刑事の視界としての映像が得られる)。
このあたりのことを、脚本家がその脚本の中で、

 (溝浦刑事の視点で)
 溝浦、拳銃を構えたままグルリと部屋を一回り見回す。

―――このように書くことはあまりありません。カメラ指定については控えることが常です。

しかし、脚本家としては、

 溝浦、拳銃を構えたままグルリと部屋を一回り見回す。

こう書いたシーンをどのように撮影するかで、視聴者に与える印象が大きく違うことを知らねばなりません。必要に応じて演出さんは「どうしましょうか?」と質問してくるので、答えられるようにしておかねばならないのです。

 溝浦、拳銃を構えたままグルリと部屋を一回り見回す。
 机の陰に隠れている平田、息を殺してジッとしている。
 溝浦は平田を見付けることはできない。

もし脚本にこのように「平田」の動きを書いたとしたら、カメラは平田からの視点(固定)で映すことが予想されます。そうすると、カメラは回らず、机と棚の間の隙間から、その場でグルリと回って見せる溝浦刑事の姿を映すことになるかもしれません。この差を知るべし、ということでしょうか。

同じシチュエーション。平田が遂に拳銃を手に飛び出し、溝浦と平田、2人はお互いに拳銃の照準に相手を捉えながら真正面に対峙する。

溝浦「平田あ!もう観念しろ!」
平田「あんたは何も分かっちゃいないんだ!」
溝浦「言い訳するくらいなら銃を構えるもンじゃあない!」
平田「ほ、本当に俺じゃないんだ!俺はハメられたんだ!」
溝浦「だったらどうして自首しないっ?」
平田「そ、それは・・・」
 と、戸惑う。銃を構える手が震える。

こんな言い争いが展開する場合、カメラの「視点」には大きく分けて3種類があります。溝浦の視点に立って銃をこちらに向ける平田を映すか、平田の視点に立って銃を向ける溝浦を映すか、お互いに睨み合う溝浦と平田の2人を横から映して1つの画面に納めるか、です。
溝浦のセリフでは溝浦の視点、平田の視点では平田の視点、と交互に素早く切り替えていくとそれぞれの人物の心情に移入することができ、精神的な緊張感があります。しかし、作劇の中心が会話となり一定のリズムを刻むため、すぐに発砲という事態になるとは予想しにくくその意味での緊張感はなくなります。
逆に対峙する2人を横から映して長回し(カメラを切り替えずに一定視点で撮り続けること)でいくと、いつどちらが発砲してもおかしくないという状況の緊張感は生まれます。
これを少し複雑に用い、素早くもつれ合い構え直した瞬間、次のカメラでは順に、平田の銃は溝浦の頭に向けられ、溝浦の銃は平田の頭に向けられ、そして2人がお互いに一撃必殺の格好でジッと睨み合う、といった3種混合の素早いカメラワーク、そしてセリフは無言、なんていうこともできます。
しかしいずれにせよ、脚本ではここまで指定することはありません。どうしても演出さんや監督さんに一任してしまう部分です。だからといって、この視点の移動を脚本家がないがしろにしたままこのシーンを書いてはいけません。常に「映像化された時、こういう視点の移動を使って緊張感を」とか「ここでは溝浦の心情を中心に展開するようにカメラワークを」とか「平田の様子について主に描写すべきシーンなんだ」とか、そう言ったことをきちんと整理して自分の中に持っているべきなのですネ^^

ボクなんかが好きな心理描写として、「空を見上げる」や「自分の手を見つめる」などといった演技があります(個人的な趣味ですよ^^;)。
脚本で「空を見上げる」と書いた場合、空を見上げる主人公をカメラに映すべきでしょうか。それとも編集で空を映すべきでしょうか。

小説なんかでも同じように読者の視点/イマジネーションを何に向けさせるかという問題があり、このような場合、

陽子は黙り込んで、ただ空を見上げた。

―――とだけ書けば、陽子の行動ということで分かります。

陽子は黙り込んで、ただ空を見上げた。雲ひとつない晴れ渡った空である。

―――こう書けば、順番に、見上げた陽子、その彼女が見上げた空の様子、となります。

陽子はただ黙り込んでしまった。空には雲ひとつない。やがて半刻の間に陽は傾き、紅に染まりゆくであろう。

―――こう書けば今度は、「彼女が見上げた」ことには言及していないので、読者によっては陽子が見上げたのであろうと解釈するかもしれないし、別の読者は陽子の背景(バック)を思い浮かべるかもしれない。けれどまあ、イメージされる情景が陽子のこの時の心理状態を示す何かの手がかりであることには違いないので、目的は達していると思われます。
このように小説ですら、何をどのような順番で叙述するかによって、読者の心の目の「視点」をコントロールするのですから、いくら完成品は具体的な映像だとは言っても、同じ文章家である脚本家がこの「視点」の操作・動きを想像しておかねばならないことは一目瞭然。

脚本で「パン・イン」とか「フェード・アウト」とか「カメラを振って追い出し」とかいちいち書くと、おおよその現場では煙たがられます。あなたが脚本家であると同時に監督であったりして、なおかつ演出さんよりも力関係が上であれば問題はないのですが。(笑)
だから普通、脚本家はカメラワークを考えません。長く映像脚本を請け負うと、しばしばカメラワークを忘れます。
ボクの場合はゲームのお仕事を請け負い場面/画面の切り替えの指定まで要求される度に「カメラ視点の操縦をいちいちこうして入れていくことはこんなに大変なのか!」と悶絶すらします。そう考えと映像制作の現場に、演出さん、編集さん、撮影さん、そして監督がおいでになることが大変心強く感じるようになります。

これからはゲームの世界でも、監督さんが演出なども含めて脚本家としっかり組んでお仕事ができるようにしたいものですし、また映像制作の世界でも、我々脚本家はカメラワーク、特に映し方の「視点」について常に留意しておきたいものです。
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by genmuki | 2008-02-21 05:44 | シナリオ小話

シナリオ小話 第21回 人物の出入り

第21回の今回は、「人物の出入り(でいり)」について考えてみましょう。
―――と言っても、経験者は自然に行っていることなので取り立てて意識されることもなく、しかし、人物設定やそのセリフ回しほどにはこだわって議論されることもありません。けれど、以前から申し上げているようなシナリオ学校の生徒さんの作品では、人物の出入りについて不明なことがあり、これについて改めて指導する必要があるであろうと講師の方と話し合ったことがあります。

人物の出入りとは、脚本上で指示した場所をカメラで映した時、人物がすでにその場に存在するのか(これを「板付き」とか「立ち」等と言います)、シーンの途中でカメラの視界に入ってくるのか(比してこれは「入り(いり)」と言います。誰もいない場所を最初に映すことを「空舞台」とも言います)の2つの方法に分かれます。特殊な例として、たとえば隣の部屋から声だけが聞こえる場合もありますし、主人公の視点となって机の上をカメラで映し彼のモノローグを入れる場合もありますが、今回の「出入り」に関しては、人物が画面に入る・出ることに絞って論じたいと思います。

「出入り」を意識しないでついつい冒してしまう些細なミスシーンの脚本を示してみます。

 駅の入り口、道子と清美がいる。
道子「ごめんね、待った?」
清美「待ったじゃないわよ! 15分も遅刻するなんて」

パッと見た感じ、道子と清美が待ち合わせをしていて、清美が言う通り、道子が約束の時間に15分ほど遅刻してやってきた際の会話です。しかしこれはあまり上手くないのです。待っている清美は「板付き」で、道子は「入り」で表現するべきです。

 駅の入り口、清美がいる。道子、小走りにやって来る。
道子「ごめんね、待った?」

脚本ではこのように書かねばなりません。

王宮で君主に謁見する騎士のシーン。
騎士が待たされてようやく謁見の間に通されたのであれば、君主が板付きとなっている玉座を映しておき、騎士が君主の前に歩いて行って(画面に入って来て)ひざまずく、という順序でなければなりません。
逆に騎士が謁見の間で待たされている場合、彼が空の玉座に向かってひざまずき頭を垂れている場面を板付きで示し、大臣の「陛下のおなりである!」の声で画面に君主が入って来る、という順序を明確にしなければなりません。
こんなのはどっちでも同じじゃないかと思われるかもしれませんが、人物設定や場面の感情に応じて、カメラが「板付き」で示している人物に視聴者の注目を集める場合もあれば、動的な立場をとる「入り」の人物に注目が集まる場合もあります。
どうしてもと謁見を願い出た騎士がジッと半刻も待たされている―――その不退転の意思を示したいと思えば、騎士は謁見を許されて謁見の間に通されたにも関わらず君主は出現せず、ジッと半刻同じ姿勢で待っている、とした方が視聴者は彼の心情を察するでしょう。

宿でのしばしの休息を終え、再び旅立とうとする主人公、彼の出立のシーン。
宿の入り口には彼と宿屋の娘を「板付き」にしておきます。そこで彼女は「お気を付けて」と送り出す挨拶をしているわけです。その場へ宿の男主人が慌てて飛び込んできて「予定は明日と聞いておりました。突然のご出立とはいかがなさいましたか」と言う。
当たり前のことですが、宿の男主人と主人公の男が「板付き」ではおかしなことになります。が、少し考えてみると、あながち「おかしい」わけでもないと気付きませんか。
後からやって来た宿屋の娘が「お気を付けて」と言えば、これはまた違った意味合いとなって面白いのです。父親である宿の男主人は主人公の突然の出立に戸惑い引き留めようとしているのだが、その声を聞き付けて事情を察知しつつやって来た娘は、主人公の出立を肯定して見せる、というわけです。彼女の父への無言の抵抗、『彼にも彼の考えがあるのであろうからお引き留めはなさるな』という言外の意思が垣間見えるかもしれません。
おおよそ同じ場所、同じ人物が、同じセリフを言ったとしても、人物の出入りに合わせてセリフの順序を調整するだけで、そこには様々なドラマが生まれます。

人物の出入りは人物劇としてリアルであり正確である必要もありますが、ただそれだけでなく、その直後の行動や表情、セリフの意味合いをも左右します。
脚本経験者はおおよそ画(え)としてシーンを連続的に想像しながら脚本化しますので、わりあい自然とこの人物の出入りをコントロールします。しかし、人物のセリフ・言葉というものを先に想像/想定しながら脚本を書くタイプの方(身経験者や初心者に多い。だからと言ってこの方法論が稚拙であるというのではありませんが)は特に人物の出入りに注意していきたいものですね^^

三郎君の朝の通学路、「板付き」の人物は三郎君の来るのを待っていたか、少し遠くから彼が来るのが見えてその場所で歩を停めていた人物です。逆に三郎君が板付きの通学路に「入って」来るのは、彼を追いかけてきた人物です。
待っていたのならば、その人物は三郎君の日常の通学路やそこを通過する時間を熟知しているという意味になります。
追いかけてきたのであれば、その人物は三郎君に何らかの用事があって(それが雑談だったとしても)追いすがったという意味になります。ですからこの場合、何の会話も何の表情もなければ不自然となる。前日にケンカをしたばかりの彼女だったとしたら無言もあるでしょうが、それでも「板付き」の三郎君のカメラに「入って」きた彼女は仲直りをしたいと思っているのかもしれませんね。
「入る」ことは「出る」ことにも通じます。
前述のように前日にケンカをしたばかりの彼女が、一度は「入って」来るのに、無言で三郎君の横を足早に「出て」行くのであれば、まだ二人の仲は険悪なのだと分かります。

人物の「出入り」―――つまり「出る」と「入る(いる)」と「居る(いる)」の3つのパターンをきちんと整理して使っていきたいものです★
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by genmuki | 2008-02-13 19:41 | シナリオ小話