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シナリオ小話 第27回 動作の連続性

今回は前回からの話を継ぎ「予測」について考えてみたいと思います。その中でも特に今回はます「動作の連続性」について考えてみます。「動作の連続性」などと言うと何やら難しい感じがしますが、実はごく簡単なことです。「自然を描く」の回でも書きましたが、登場人物たちの動作つまりアクションが自然に連続しているかどうか、というだけの話です。
言うまでもなく、ボクたちが考える「視聴者」はごく普通の常識のある人たちです。この視聴者が知っている周囲の人々も普通の人たちです。だから、脚本に書く登場人物たちもまずは普通の人たちとして見られます。歩く時には、右足、左足、右足、左足、と交互に差し出しながら歩きます。あまりに当たり前のことです。
つまりこの「右足、左足」こそが「動作の連続性」ということであり、予測通りであるということは右足の次に左足ということであり、「右足、右足、左足、右足、右足、左足」という歩き方はは予測を裏切るということです。

剣豪同士が打ち合いをする場面。剣豪Aが「えいやあ!」と叫んで剣を振り下ろせば、剣豪Bがその剣撃をどのようにさばくかということが出てこなければなりません。
剣豪Aの「えいやあ!」とカメラで映したら、視聴者の意識は剣豪Bの行動に移され「予測」ないし「期待」します。
一方、剣豪Aが「えいやあ!」と振り下ろした剣が剣豪Bとはまったく見当違いの方向であったなら、視聴者は予想を裏切られますから「ん、なんだ?」と驚きます。驚くのも束の間、「この行動には何の目的があったのだろう?」とめまぐるしく次の「予測」を立て始めるかもしれません。
あるいは剣豪Aが「えいやあ!」と叫んで踏み込んだのに剣を振り下ろすことを途中で止めれば、やはり予想を裏切られます。「おっとっと」となる。「おっとっと」となってから、「剣豪Bを斬ることをためらったのだろうか?」「剣豪Bを挑発しているのだろうか?」「見せかけなのだろうか?」と色々考えるかもしれません。

―――要するに、「えいやあ!」と叫ぶ、踏み込む、剣を振り下ろす、という一連の動作は十分に予測可能なものだ、ということです。
もう少し例を挙げておきますと、

少女がつまずいて転び、膝をこする。
少女「いったぁ!」

階段を全速力で駆け上がってきた太郎君。
太郎「はあっ、はあっ、はあっ!」

・・・こういうのは、ごくごく当たり前の行動で、誰にも納得できる行動・状況とセリフの連続性です。
逆に言えば、階段を全速力で駆け上がってきたのに息ひとつ上げずに落ち着き払っている太郎君は何かおかしいし、転んで膝をすりむいても平然としている少女もやはりおかしいというわけです。視聴者は苦痛に歪む少女の顔を「予測」するのだから、ちゃんとこれを描いてやらねばならない。

先ほどの剣豪同士の打ち合いをもう一度例にひいて、予想を裏切るということの基本型について考えてみます。

1.剣豪Aが「えいやあ!」と強烈に打ちかかる。剣豪Bはこれを大きく横へ剣で払いのける。―――まずはこれで第1撃が終了だと「予測」させておいて、実は裏切ってみる。
2.剣豪Aが「かかったな!」と笑い飛ばす。体勢を崩した剣豪Bの懐に向かって、剣豪Aは左手で脇差しを抜いて突き立てようとする。―――ではこの奇襲が成功するかと「予測」を変じた視聴者を、もう一度裏切ってみる。
3.剣豪Bは突き出される脇差しをこともあろうか素手で掴み取っている。刃を握った手から血がにじみ出て、脇差しは腹に少しだけ突き立っているが致命傷ではない。剣豪Aは「なんと!」とひるむ。ひるんだ相手に向かって剣を振り上げ直す剣豪B。―――すると剣豪Bが逆転するのだろうと「予測」する視聴者を、さらに裏切ってみる。
4.剣豪Bがいきなり大量に吐血する。剣豪Bは「毒か!」と慌てる。ニヤリと笑う剣豪A。剣豪Bの手から刀がズルリとこぼれる。―――こうなるといよいよ剣豪Bの形勢は悪いと見る視聴者だけれど、最後にこの「予想」すら裏切ってみる。
5.剣豪Bは手から取り落とした自分の刀の柄を足で蹴飛ばす。刀の刃は剣豪Aの下腹部に深々と突き立つ。剣豪A「そ、そんな・・・」とうめいて崩れ落ちる。

―――と、この例ではここで終わりにしておきますが、1での打ち掛けに払いなどは順当ですし、2.での「かかったな」に脇差しを引き抜いての奇襲も順当、3.での捨て身の防御と剣豪Aの驚きも順当ですし、4.での突然の大量吐血に「毒か」の驚きも、5.での柄を足を蹴飛ばすという奇手が会心の結果につながることもある程度は順当と言えるでしょうから、一定のリズムがあることに気付いてほしいと思います。
このことはある脚本教室で「矢印理論」と言っているものです。矢印には始点と終点があります。それがなければただの点です。矢印には指し示す方向がありますが、点にはありません。矢印によって指し示した方向があるからこそ、これを裏切ることができるのであって、点々の連続には裏切りも何もありません。ですから、「強烈に打ちかかる→大きく払いのける」「かかったな!と叫ぶ→奇襲する」「素手で握り止める→剣豪Aが驚く」と、2枚仕立てでリズムを刻むようにしています。
実際のスポーツの試合や生命のやり取りである果たし合いでは無言かもしれませんが、そうしてしまうとまるで点描のようになって玄人にしか理解できない。常識人である視聴者に「予測」を抱かせた上でそれを裏切るためには、矢印の始点と終点をひとつずつ描くようにする。

「走る」から「到着する」だとか、「受話器を取る」から「電話をかける」だとか、「動作の連続性」には、視聴者が『それはまずもって当たり前。この後はどうなる?』と思わせる当たり前さが必要となります。その上で「到着したのに一歩遅かった!」だとか「電話が通じない!」という「裏切り」が初めて成り立つのです。
間に合わないことが(視聴者に)分かっている状況で走り続けてようやく到着しても意味がない。最初から受話器を耳に当てている人物が「電話が通じていない!」と言っても、それは裏切りではなく単なる報告になってしまう。
「こうなったら○○さんに応援を呼ぼう!」と言う、懐から携帯電話を取り出す、手早くダイヤルする、電話を耳に当てる、そして「くそ!電波が届いてないのか!」と言えば、視聴者は「あらら、そうなのか」と「予測」を裏切られるのでOKというわけですね。

今回も何かと取り留めがなくなってしまいましたが...(^^;

・当たり前の動作/アクションの連続性が一定以上あるから、
・ドラマや動作がすんなり転がったり、
・それを裏切るという技法も可能になる

―――こんなことを意識した上で、常に「動作の連続性」を考えて脚本上の人物の動作や心情の動きを描写するように努めたいと思います^^
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by genmuki | 2008-03-26 16:56 | シナリオ小話

シナリオ小話 第26回 予測と伏線

文章技法で言う「伏線」は「伏線を張る」などの言い方で今や視聴者にも一般的になった言葉です。今回はこの「伏線」ということを考えてみたいと思います。

まず一つの結論から言いますと、視聴者は常に「予測」を繰り返しています。これは映像脚本や小説に限った話ではなく、人間の自然な反応であると言えます。五感で感知した事柄に対して、常に『これはどういう意味を持ち、だから、次はどのように事態が展開するのか』ということを考え、これに反応します。様々な経験や知識の蓄積の中から関連する事柄を一瞬にして幾つも想起し、結果を予測します。
街中を歩いていて「キキキキィィーーー!」という猛烈なブレーキ音を聞くと、続いて「ガシャーン!」という衝突音を予想しませんか。そして「ガシャーン」がないと、『事故には至らなかったのか』と思ってホッとするわけです。
友人と飲みに行った時、仲間が酔っ払った場合。友人が大きく右によろめけば、慌てて彼の身体の右側に手を差し出して支えようとするでしょう。

脚本でも当たり前のように、この「予測」を描きます。第1に事柄を書き(事実)、第2に視聴者が予測するのは何かを考え(予測の推理)、第3にこの予測に対する対処(結果)を決めます。このパターンでは、あえて第3段階で視聴者の予測を裏切ることも効果的です。

大家さん「おはよう、神崎さん」
神崎「おはようございます」

言うまでもなく、「おはよう」と挨拶されたら「おはよう」と返します。予想を裏切りません。

大家さん「おはよう、神崎さん」
神崎「こんばんは」
大家さん「・・・・・・??」

「おはよう」に対して「こんばんは」は明らかに非常識、視聴者の予想を裏切りました。視聴者は「あれ?」「何だ?」と思う。ここから神崎さんへの興味がわきます。

また当然ながら、後ろから行く発想方法もあります。第1に述べたい事柄や描写したい事件を考え(結果)、第2にどのようにすれば視聴者がそれを予測するかを考え(予測の推理)、第3に初めて事柄を書きます(事実)。この後者の手法を一般的に「伏線を張る」と言っています。

1.交通事故でわが子を失った母親と事故を起こした若い男との懺悔のドラマを描こう
2.しかし、どうすれば「若い男」は交通事故を起こしそうだろうか?
3.ならば、若い男は病気の母の治療費を稼ぐため寝食を削って仕事をしていることにしよう

―――こうして実際に上の3の部分のシーンを描くと、それは「交通事故」の伏線になるというわけです。説明するまでもなく、脚本上では大変に重要な技法のひとつです。

この「伏線」に関してはまた様々な手法へ分岐し、事実Aとは異なる予測Bを視聴者が抱くように誘導することを「ミス・リーディング(誤った導き)」などと言います。わざと視聴者をミスリードする方法もあれば、脚本家の提供する情報が結果的に事実Aを想起させなかったというただの失敗例もあります。
また、事実Aから予想される予測A’には幅があり、事実Bから予想される予測B’にも幅がありますが、A’とB’と合わせて考えた時に初めて正しい予測となり得る、といったギミックも可能になります。この辺りは論理学になりますが、別個の問題Aの解A’は「1か2」であり、問題Bの解B’は「2か3」である時、問題ABの単独解は「2」である、といった具合。
犯人探しなどでは、「竹田さんと松下さんが犯人かもしれない」「鈴木さんと島本さんも犯人かもしれない」と犯人候補者が増えていく場面と、「竹田さんが死んだ」「島本さんにはアリバイがある」「松下さんには動機がない」と候補者が絞り込まれていく消去法の場面とかあったりします。これらを通じて、視聴者は順々に自らの「予測」を広げたり狭めたりしながらドラマの最後を見守ることになります。

さて、「分からないことは分からないでいい」などの回でも少し書きましたが、視聴者は脚本家が意図する以上に「予測」を繰り返しています。はっきり言ってしまえば、ありとあらゆる状況・セリフ・映像・物体を見て、相互に関連付けて「予測」していきます。それはむしろ「自由連想」に近いほどです。
ですから脚本家が留意しなければいけないのは、自分が書いた人物の一挙手一投足が視聴者に何を想起させ「予測」させたかという多面的な検討の姿勢です。推理物を書いている時、意外と脚本家本人が「ラストまで分からないはず」と思っていても、視聴者はかなり早い段階からほぼ確信を持って最後のトリックを見破っていた、ということもあります。
伏線の数が多すぎたり明確でありすぎたり、あるいは、論理学的に見てすでに解が導き出されている場合などでは、視聴者はすでに答を知っている可能性が高い。すると、劇中の人物が「そうだったのか!!」とどんなに叫んでも、視聴者の側からすれば「何を今さら・・・」となってしまいますので要注意です。
「見えすいたウソ」などと言いますが、ドラマが「見え見え」では緊張感もへったくれもありませんから、視聴者の予測の範囲を緻密に予想して、必要最低限の匙加減を心がけねばなりません。

この「伏線」はトドのつまり難しい技法ではなくむしろ脚本の肝腎ですから、扱い始めると脚本技法そのものを論じるほどに長い話になるでしょう。「伏線」と題しましたが、結局は「予想」であり「予測」であり「リアクション」と呼ばれるものにも及びます。このような色々の側面からの考察は次回以降に譲るとしたいと思いますが、今回は―――

・人間は自然と未来を予測しながら思考する生き物なのだから、
・脚本技法上の「予測」「伏線」はドラマを構成する上での肝腎なのだ

・・・ということをまずは確認しておきたいと思います。
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by genmuki | 2008-03-20 04:16 | シナリオ小話

シナリオ小話 第25回 価値明示的

第20回を一つの記念としましたが、25回の今回のお題を考える時、ふと『毎週水曜日に連載して24回でおおよそ6ヶ月か』と感じ入りつつ、少し初心に戻ってみたいと思います。
以前の拙連載で書いた通り、かつて薫陶を得た教授の言葉「(政策科学は)常に価値明示的であるべし」との言葉を思い出しつつ、やはり脚本の技法にしても何にしても、全ての技術/手法が、作り手の価値観を明示して成り立つ、という立ち位置に戻ってみたいと思います。

当連載の初回「すべてにシナリオあり」や「切り取り」「助詞」「モンタージュ」等で度々触れて来た通り、脚本上のセリフや表現、そもそもの物語の組み立てといったものは、作者/筆者の価値観の上に成り立っております。
逆をすると、価値観を明示的に感じない脚本や物言いは実に虚しい。
多くの脚本家が「芸術家」ではなく「商業作家」であると言えるでしょうが、だからと言って、では「商業作家」は価値明示的でなくともよいのかと言えば、そうではない。むしろ逆で、自分の書くセリフやドラマのあらゆる箇所に自分の価値観というものを出すのが「作家」であり、それが我々の仕事です。もっと言うと、どうしても作中には価値観が滲み出てしまう。

ニュース原稿の例をひきましょう。これは社会学などを勉強なさっている学生さんの論文でも同じことが言えます。

数値αが60から55に変化したことについて言及する時。

A.キャスター「当初60の数字は、ここにきて55と低下しました」
B.キャスター「数値αは、今日、依然と55の数値を保っております」
C.キャスター「その変化は5ポイントにとどまりました」
D.キャスター「5ポイントもの低下を余儀なくされています」

AやDは、この変化を否定的に捉えています。BやCは、この変化を肯定的に捉えています。
―――いいえ。事実は数値αが60から55に変化した。この真実のみであります。
しかし、このことをどのように言葉に置き換えて解説/述懐するかにより、視聴者の印象をコントロールしてしまいます。

次郎が子太郎を斬り捨てた場面。

将監「ふふふ。よくやった・・・」

お米「なんということをなさいましたか・・・」

2人の立場が違うので、この行為を片方は肯定的に捉え、もう片方は否定的に捉えます。
これは単なる「立ち位置の違い」ではなく、一定の事件に対する各人物の価値観からなる『評価』なのです。

ボクたち脚本家は、ありとあらゆる事象・事件・ドラマ・言動に対して、そのリアクションや評価を書く時、価値明示的でありますし、価値明示的でなければ人物像も伝わらず、とどのつまりはドラマが転がりません。
しかし、同じ感慨を視聴者に与えているという現在における現実には目をつむることができません。

しばしば仲間内の冗談で、「このドラマは実在する~~~の表示があるのだからよいじゃないか」とか、「クライアントと企画あってのものだから、これがイコール筆者の感じ方だとされても困るんだよなぁ」なんて話をします。そうしてボクたちは逃げます、逃げがちです。
実際に視聴者はそう思うでしょうか? ―――殺人や暴力を善しとし、人を傷つけることを是とするドラマを見て、視聴者がそこから『まぁ、彼らにもそう書く必要性があったんでしょうよ』と思ってくれる保証などありますでしょうか?

・・・では、どのような時、人を斬る浪人の姿を肯定していいのか?
・・・では、どのような場合において、戦士や兵士を礼賛していいのか?

残念ながら、脚本家はこの価値明示的な責任を負わねばなりません。
もっとも視聴者はそれほど愚かではないので、TVや映画で見たままのことを模倣はしません。
ただ、ボク自身がそうであるように、多くの「受け手」は、やはり作品に提示される価値観に共感したり反発したりします。作家という立場に立つと、作中に示した自らの価値基準に言い訳は許されません。ゆえに三島は逝き、鴎外は「ヰタ・セクスアリス」では赤裸々ですらあった。

物作りをするということは重いことなのだと、最近とみに考えさせられます。
特に報道・ニュース番組を拝見すると、ますます脚本家の仕事における「価値明示的」である立場というのは影響力があるのだと思い知らされます。
人の物言いは何時如何なる場合においても(創作劇の中であろうとも)、価値を伝えるものなのです。
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by genmuki | 2008-03-12 19:00 | シナリオ小話

サークル「幻夢騎」は会社じゃないって!!

ああー、もう!
このところの自分の説明の下手さっていうかガードの甘さに自己嫌悪!です...

―――と、愚痴で書き始めてしまいました、おおやぎです。
今回は愚痴を書きますよー! えいえい・おー!(`0´)ノ


ただ、内容が「誤解しないでよ!何なんだよ、あんたたちは!」っていう一方的な愚痴なので、内容が気になる方だけ、続きをお読み下さいませ。(滝汗)

愚痴に付き合う
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by genmuki | 2008-03-11 04:08 | 幻夢騎

シナリオ小話 第24回 意味深の言葉

連載も24回目、今回は今までと大きく外して、「意味深の言葉」をテーマに論じてみたいと思います。もちろん不思議なばかりで意味の通じないセリフという意味ではありません。字義通り、より「意味合いの深い」言葉のことです。
過去のお題「視聴者のレベル」云々という話題でも触れたのですが、やはりボク自身の感慨として、最近の視聴者のレベルは大変に高く、番組に求められるものが昔とは大きく違って来ていると思っています。
端的に言えば、『誰もがそのように想像し、“ただの”会話、“ただそれだけの”内容としか受け取られないであろうと予想されることは、書かない方がよい』といったことが言えるかもしれません。

例をひとつ挙げますと―――

健太郎「ははは。おまえにも不得手なことがあるか」
涼二郎「河童の川流れとも言うからなあ」
健太郎「おまえが河童かい。笑わせるよ」
涼二郎「少なくとも俺は上手に泳ぎ渡ってきたつもりなんだがなあ」

こんなセリフのやり取りは下手すると2重説明で、あまり深い意味合いを感じさせないセリフです。コトワザを書いたのでそれなりに気の利いたセリフであるかのように思ってしまうのですが、視聴者はこのレベルのやり取り(実際には小学校で習うコトワザ)を求めていないのではないか。

健太郎「ははは。おまえにも不得手なことがあるか」
涼二郎「誰もがアキレウスであると言えるんだろうよ」
健太郎「おまえがアキレウスかい。笑わせるよ」
涼二郎「そもそもアガメムノンが悪いんだ! あの社長め」

こんな風にすると、すこし教養を必要とされます。
「アキレウス」は、無敵を誇りながら、最期は踵=アキレス腱に矢を打ち込まれて絶命した神話の勇者です。このような教養があると意味が通じる。これを知らない視聴者には「???」だけど、何らかの意味ある言葉を言っているには違いないと感じる。「河童の川流れ」よりは意味が深い。
使い古された陳腐なコトワザよりも具体的な神話/逸話をひいている分、涼二郎が自身をアキレウスにたとえた心理も垣間見えるかもしれない。視聴者はここにウン?と興味を引かれ、理解できた時には心理的にグッと来る。

落語やその小咄などを考える作家がいます。落語作家と呼ばれています。今では古典となった古典落語も、かつてはその時代の落語作家によって創作されました。そこから「時そば」や「かまとと」等の言葉が生まれ、大衆に愛されてきました。
古典落語の脚本を読んでみると、当時の作家らは、何と洒落た言葉を使い、探し、時には作ったものだろう、と感激します。江戸落語でも上方落語でも同じです。場所や時代が変われば「洒落」や「粋」も変わりますが、それでも変わらないセンスというものがあります。
月並みコトワザばかり並び立てて話すお人が近くにいれば、実際には大変にウザいと思います。日常会話で四字熟語を濫用するお人もかなり珍しい。けれど、ココという時に他に言葉が見つからなくて咄嗟に出てしまうこともあるでしょう。

良平「うわああ。親父はあの調子だし、兄貴はあんなだし、お袋は帰って来ねえし、冴子まで聞く耳持たねえ・・・。もうどうすればいいのかわかんないよ!」

良平「ううううう。親父―――兄貴―――お袋―――冴子まで―――。四面楚歌だあ!」

良平を囲む4人の人間がそれぞれに突き付けてくる問題に思わず苦悶する構図、数までピッタリです。意味としては前者の方が良平の愚痴の内容が明らかで分かり易いですけど、説明的です。

こういった言葉・故事・諺、あるいは関連語の引き出しを幾つ持っているかが、脚本家の財産ではないでしょうか。
決してこういった小手先のテクニックを使うべきと論じるつもりはありませんが、一つでも二つでも、より意味の深い/より高度だと思われる言葉遣い/セリフ回しをしようと試みるべきかと思います。
また、このことはセリフに関してのみではなく、シャレードとして画面に映す対象にしても、より意味が深く、視聴者の教養や常識を求めるものをあえて出してみる。正確に分からないなら分からないなりに、何とか雰囲気として通じればそれでよい―――こういった勇気というものが、またひいては次代の視聴者を育てるのではないかと思います。
NHKの番組で漫画編集者の長崎氏がおっしゃっていた言葉ですが、今日の消費者・読者は大変に賢明で、当たり前の表情や心理を読みたいとは思っていない、複雑で謎の多い人物像が好まれ、読者はしっかりとそれを理解していく、とのこと。
その表情は陳腐ではないか、その言葉は安くないか、そのセリフに深い意味合い/味わいがあるか。
「意味深」とは、時には知的な言葉の遊びで、時には適切な言葉遣いで、時には平易な言葉ですらあるでしょう。とにかく味わい深い言葉を探し続ける。作家の「洒落」や「粋」を思う存分書いてみて、視聴者に投げかけてみる。
―――それをしないで説明的な言葉を選び続けるならば、いつまでたっても脚本はドラマにならないでしょう。
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by genmuki | 2008-03-05 10:27 | シナリオ小話