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シナリオ小話 第31回 便利な言葉

第31回目の今回は、脚本を書く上ですぐに使えるお手軽テクニックということで「便利な言葉」について考えてみたいと思います。

今回考えてみる「便利な言葉」とは何かというと、「F・O(フェードアウト)」とか「ブリッジ」のような用語や略号のことではなく、作劇する上でセリフに用いることによって即座に視聴者に状況や感情が理解される言葉のことです。
結論から言いますと、これらはボクたちが日常生活の中で最も多用する単純な言葉です。

まず代表格が「ありがとう」。言うまでもなく「お礼」の言葉です。

 峠の茶屋、浪人・蔵人が床机に座っている。
蔵人「かたじけない」
 と、空になった湯飲みを茶屋の娘に手渡す。

時代劇でよく見かける峠茶屋のシーンですが、普通は、勘定を床机の上に置いて無言で立ち去るか、「ここに置くぞ」と言って勘定を置くか、そんなところです。侍はよほどのことがない限り、知り合いでもない娘に「ありがとう」とは言いません。しかしこのシーンで蔵人はお礼を述べている。
・・・このことから、蔵人は茶屋に親切な心遣いをしてもらったか、あるいは無銭の身の彼に同情した茶屋に茶の一杯でもめぐまれたか、そんなところでしょう。
どちらにせよ、この蔵人という侍が、羽振りよくもなく、また悪人でもない、ということが伺い知れるシーンとなりますから、「ありがとう」の一言で十分に伝わっていると思ってよいでしょう。

謙介、桜子にハンカチを渡しながら、
謙介「これ、ありがとう」

この場合、ハンカチは桜子のもので、謙介が借りていたことが分かります。これだけでは今さっき借りたのか昨日借りたのかは分かりませんが、その情報が特に重要でなければ、このシーンにこの「ありがとう」の一言で意味を成します。「これ、君に借りてたハンカチ。ありがとう、昨日は助かったよ」なんて冗長なセリフを喋る必要性はどこにもないのです。

また、同じく便利なのが「挨拶」の言葉です。「おはよう」「こんにちは」「こんばんは」あるいは「お疲れ様」など。
言うまでもなく、登場人物同士が「おはよう」と挨拶を交わしていれば朝です。朝か昼か時間帯が分かりにくいオフィスビスの中でのシーンでも、この「挨拶」だけで状況や時間帯が分かります。
もっと言えば、炭坑で働く男同士が「おはよう」と言い合っていれば、そこはカンテラによって照らし出される薄暗い坑道であっても、時間が朝であることが分かります。

次に「謝罪」の言葉です。「ごめんなさい」「すみません」「申し訳ございません」など。
主人公のサラリーマンは営業職、今日も外回りの仕事中、次のシーンでは得意先の酒屋の店先で、

修治「すみませんでした!」
 と、頭を下げている。
店主「まあ、よろしく頼むよ。おたくとは長いんだから」
 と、帳場で帳簿をめくり、ボールペンでさっさとサインして伝票を修治に寄越す。

―――こんなシーンでは、主人公の修治が何かミスをしたか、あるいは会社のミスの謝罪に回っているのか、とにかく営業職の彼の仕事はひたすらに頭を下げることなんだ、という印象になるでしょう。
また、これらの言葉は同時に「謝礼」の意味にもなりますから、もしかすると多少の無理を聞いてもらって受注し今月のノルマを達成したのかもしれません。だとしても、修治の日常の仕事の雰囲気は十分に伝わっています。

同じようなサラリーマン物で、先輩会社員が後輩社員に「おまえはまだまだだ、そんなことではやっていけないぞ」と鼻息も荒く説教をたれている場面。後輩を後ろに従えて廊下を大股で歩きながらクドクドと説教を繰り返している。「おまえは何もわかってない」だとか「そもそも俺の若い頃は」なんてことを言うのでしょう。
が、廊下の角で思わず対向者とぶつかりそうになってニアミスした時、先輩は相手の顔を見るなり、「すみません、すみません!」とペコペコ頭を下げる。
・・・この例ではもう言うまでもなく、相手はこの先輩社員の上司だったのでしょう。相手が部長か社長かそれは分かりません。けれど、後輩には偉そうにクドクドとお説教を垂れる先輩が、上の人間に対してはペコペコで卑屈ですらあることを示すには十分です。「これは社長! す、すみません!」というセリフを書きたくなりますが、単にすれ違うだけの2秒ほどのシーンなら、社長の顔などフレームに入れる必要はありませんし、視聴者は相手が社長であったことを正確に知る必要もありませんから、謝罪の言葉で済ませておけばよいでしょう。

他にも「便利な言葉」はいくつかあります。「おめでとう」という賛辞や、「さようなら」のような別れの挨拶、「ご苦労様」のような労いの言葉も意味が明確で脚本には便利です。

A「やあ。この前の受注、300だってね」
B「君も300だろう」
A「お互い様か」
B「まあ来月を見てろって」

こんな会話では、視聴者には伝わりません。300という受注の数字が十分なのか不足なのかが分からないので、そもそもこの会話の意味が通じません。

A「おめでとう。この前の受注、300だってね」
B「君も300だろう」
―――とすると、即座に意味が通じるようになります。300はよいスコアなのでしょう。

A「やあ。この前の受注、300だってね」
B「ありがとう。君も300だろう」
―――としてもよいです。Bがお礼を言っているのでAのセリフは賛辞であり、やはり300はよいスコアなのだと分かります。

A「やあ。この前の受注、300だってね」
B「君も300だろう」
A「申し訳ないが、お互い様か」
―――このようにすると、300が良いスコアなのかどうかは微妙になります。好受注を競い合っている2人かもしれませんが、ビリを押し付け合ってる2人かもしれません。

A「やあ。この前の受注、300だってね」
B「君も300だろう」
A「お互い様か」
B「ありがとう。まあ来月を見てろって」
―――この場合はどうでしょうか。Aは「お互い様」と言っているのにBはお礼を言っています。BはAより格下か経験が浅いのかもしれません。それでも同じ受注成績に追い付いて、来月こそはAを追い抜くというBの意気込みが伝わってくるようになります。

このように、謝礼や謝罪、挨拶、賛辞という言葉は、ボクたちの日常生活でも多用され、しかもほとんど場合は単独できちんと意味を成します。
テンポやペースを重視する脚本の世界では、これらの短い言葉を十二分に活用していくことが肝要ですが、残念ながらこれらの言葉の使い方について十分に留意していると思われるTVドラマなどは最近とみに少ないようです。おおよそよけいな一言や解説が付いてきます。ベテラン脚本家が「最近の脚本は喋りすぎている」と言うのは、この辺りにも関係するでしょう。
短く意味の明確な言葉であるがゆえに、その特性をふまえて上手に使ってこそ、これらの言葉は「便利な言葉」になるのでしょう。
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by genmuki | 2008-04-24 01:28 | シナリオ小話

シナリオ小話 第30回 人物設定

拙連載も30回目となりました。毎週、水曜日がやってきますと「シナリオの基礎技術」といったシナリオ読本や「文章読本」のような愛読書を開いてネタを探すようにしていますが、毎度毎度、書かれている内容を読んでは「ああ、自分はまだまだ未熟で、ここに書かれているようなことをできるようにはなっていない」と思わされ反省する次第です^^;

本来の脚本技法からは少し離れますが、今回は「人物設定」について考えてみたいと思います。
ボクは元々映像脚本の方から入って来ましたので、いわゆる「あらすじ」や参考資料として作成する人物設定・人物紹介では、

亮輔 : 本編の主人公。家庭が貧しく粗暴に育った彼が周囲の様々な人と交流を持って人間的に成長する過程を描く。
次郎 : 主人公・亮輔の親友で、しばしば粗暴な亮輔をたしなめる。亮輔の妹・世津子に密かに想いを寄せる。

たとえばこんな感じで簡潔に書いておくことが多かったように思います。脚本の登場人物一覧に列記する程度の内容です。
特に次郎の場合、彼のドラマ上の立ち位置、主人公への関わり方を中心にとりまとめておく程度ですね。というのも、あくまでも主人公は「亮輔」であって、次郎は主役ではありません。書きたいのは亮輔のドラマなのですから、しばしば次郎は亮輔のドラマの引き立て役になります。言い換えれば、亮輔のドラマを面白くするために、次郎にはある部分で適当な役回りを与えることになるからです。

しかし最近の傾向なのかゲームの案件が増えたせいか、人物設定を事細かに別表にして添付することを要求される機会が多くなりましたので、体型や髪型、ファッション、性格の細かい部分や趣味まで書くことがまま出てきました。

次郎 : 主人公・亮輔の親友。気の優しい性格、勉強がよくでき、クラスの中でも学級委員長を務めるなど人望があつい。スポーツも得意でサッカー部の主将を務める。180センチの長身でスタイルもよく、女子にはよくもてる。良家の次男で、父親は県議会議員、母は専業主婦、兄は国立名門大学に通う学生。権威主義的な父親や兄に心の中では反発を禁じ得ない。根は真面目だが、クラスで孤立ぎみの粗暴な亮輔などとも親しく接する。小学生の頃からピアノを習っている。亮輔の妹・世津子に密かに想いを寄せるが告白することもできず自らの恋慕に戸惑い気味である。等々~。

―――個人的にはこういった「設定」はあまり好きではないです。
いや、設定を考えて脳裏に人物像を浮かべる作業は大好きですし、実際は一人でニヤリとしながら楽しんでもいます。(笑)
しかし、執筆を始める前に事細かな性格付けなどを決め切ってしまうことには、今だに違和感を覚えます。
なぜなら、本来の脚本では、人物の性格や立ち位置といったものはその場その場で変わりもしますし、プロットや構成を練っている最中で二転三転します。そもそもが「人間」だなどというものは複雑きわまりないものだからです。

上述の次郎の、父親に対する態度と母親に対する態度が異なることを描写する機会があるとします。
しかし本来は脇役である次郎のそれを描く時、主役の亮輔に「どんなに幸福そうな恵まれた家庭でも色々と複雑な事情があるのだ」と思わせるための場面かもしれません。次郎の兄や父親に対するコンプレックスを見せることによって、亮輔が次郎に心を許す契機を提供しようとしたかもしれません。
どちらにしても、ドラマの中では亮輔に何かのきっかけを与えるために次郎のこの設定を持ち出したのであって、次郎その人を説明しようとしたわけではありません。結果として次郎のこのような性格・設定が視聴者に強い印象を与えたとすれば、それはそれで番組の魅力の増幅につながるでしょう。けれど大切なのはあくまでも主役・亮輔の心のドラマです。

ところが、先に事細かな設定を作っている場合、「これこれこういう設定が生かされていない」とか「この設定と矛盾した態度となっている」などの指摘がなされる場合があります。「○○という設定があったと思うのだがどこに出てくるのか」と言われる場合もある。
・・・これでは実に本末転倒で、本来は描くべきドラマがあり、主役とそうでない人物との明確な扱いの差違があり、脇役の「次郎」の設定がどのようであるかはむしろドラマ自体が要求するのです。ドラマを構築し修正や推敲を繰り返した結果としての「次郎」しか本来は存在しない。

これは最近の自分の中でも反省すべき事項だと認識していますが―――
描くべきは人物設定ではなく、より広義での人間的な「人物像」であり「彼のドラマ」なのです。
そのために脇役が存在し端役が存在し、全体として主人公を取り巻く世界を形作っていく。
群像劇となるとまた話は少し違いますが、それでも主役の周囲には脇役たちがいて、主役の心情変化や行動の契機を作り、影響を与え、情報を示し、結果を知らせていく「対象物」としての役割となります。
どの脚本読本にも書かれていることですが、脇役の事細かな部分までをきちんと決めてしまうことには弊害が多いものです。主人公を中心としたドラマというものがありテーマというものがあり、これを語るに必要な事件なり事故なりがあり、それを形作るために脇役たちが行動してくれます。

「人物設定」などというものが鼎の軽重を問うようなことになってはいけませんネ♪
くわばらくわばら・・・じゃなくて、要注意です。
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by genmuki | 2008-04-17 22:05 | シナリオ小話

シナリオ小話 第29回 時間の処理

今回は、ボクが脚本仕事をしていていちばん困るもののひとつである「時間の処理」について少し考えてみたいと思います。白状しますと、ボクは時間の処理が苦手です。自分の脚本を何度か読み返し、「あ、やばい!」と思って修正することがしばしば。

では、自身の経験から、時間の処理でマズイ例を挙げてみますと。

学校の授業が終わる、放課後、「やっと退屈な授業が終わった」と感慨を漏らしながら主人公が帰路に着く、家に帰る、母親が出てくる、夕食の前に風呂に入れと言われる。

―――このような一連のシーンをついつい書いてしまいます。もちろんこれをダラダラと並べるわけではありませんが、要するに時間の序列としてこういう流れを想定してしまう。
そして読み返した時、「あ!学校の放課後というのは3時半だ。それから夕食の6時までには2時間半もあるんだった!」と思い出すわけです。(汗)
徒歩で自宅の近所を歩く主人公の絵を映しているとすれば、この主人公は学校まで徒歩で通っているのかもしれない。だったら2時間前後も歩いて帰って来て夕食の時間になったのだろうか?
・・・と考えますと、どこかで時間を盗んでおかねばならないことに気付き、慌てて「時間泥棒さん」を出動させることになります。ボクはこういうミスを自分でもよくおかしてしまうのです。

こういった場合、主人公が帰路で寄り道をしたり・どこかで時間をつぶす描写を入れるか、あるいは、すでに帰宅していることにして自室で夕食の時間まで何かをさせて時間をつぶさせます。
脚本では、たとえば―――

「ここまま帰ってもヒマだしなぁ」なんて言わせて、ゲームセンターに入っていくシーンを入れるとか。
帰路に着くシーン、自宅近所の風景、自宅の玄関に彼の靴、自室で学生服から着替えの済んでいる主人公、ゲームをしている姿、というような組み合わせにしてやるとか。

ちょっと気を付けておいてやらねば、「彼は2時間以上も歩いて自宅に帰った」ことになってしまう。皆さんも気を付けて下さいね。(笑)

脚本はあらゆるシーンでも常に時間を進める必要性に迫られます。
たとえば食事のシーン、一般的に家族で集まって夕食をするなら30分はかかるでしょう。60分ドラマなのに夕食に30分をリアルタイムで映していてはまったくドラマになりません。けれど夕食のシーンは欲しいといった時、言うまでもなく誰もが欲しいところだけを切り出して使っています。この切り出し方に巧拙が出る。

 ダイニングテーブルに家族4人の夕食が支度されている。
母親「タカシー、夕食よ。お姉ちゃんも呼んでちょうだい」
 と隣室に呼びかけながら、茶碗に飯をよそう。

 ダイニングテーブルに父親・母親・タカシ・ヨシコが集まって食事をしている。あらかた食事も済んだ頃合い。

たとえばこういう2シーンで構成します。タカシが姉を呼び、父親もやって来て、揃って夕食が始まる、という部分を省略することにより、夕食開始後20分くらいの時点から始めることができます。通称で「飛ぶ」とか「飛ばす」と言います。どこの区切りで飛ばすか、どこへどの程度飛ばすかということを考えねばなりません。
上記の例で、

1.タカシ、自室で机に向かって宿題をしている。
2.父親が風呂から上がる。
3.母親が流しで食器を洗っている。ヨシコも横で食器を拭いてお手伝い。

このいずれに「飛ばし」ても、飛ばしすぎでしょう。「呼んでちょうだい」のシーンの次に1.では、タカシは宿題をしている時に呼びかけられたのだとなってしまう。2.では風呂上がりの父親がこれから夕食なのだとなってしまいますし、3.だと食事が終わったシーンであることは分かるかもしれませんがあまりにも乱暴です。下手をすると、夕食はまだこれからで、調理に用いた汚れものを洗っているようになる。それでもヨシコがこの場にいるから視聴者は混乱するばかりです。
最初に挙げたボク自身のミスでも、「帰路につく」から「家に帰る」までの間に時間を「飛ばし」ていますが、帰宅して直後に「夕食の前に」というセリフがあるので、この時に『2時間以上飛ばしたのか?!』となってしまうわけですね。

サラリーマンを主人公にしたドラマでは、しばしば8時間なり10時間なりの勤務時間の大半を「飛ばす」必要が生じます。そういう場合、たいていはボクが勝手に「時間泥棒さん」と呼んでいる手法に登場してもらうことになります。脚本手法の中では「空巣法」と呼んだりもしますが、早い話が、別の話を挿入してサラリーマンの主人公から一旦視点を切ってしまうことです。

 朝の事務所、社員たちがいそいそと仕事を始めようとしている頃合い。
課長(主人公)「さてと。今日も一日頑張りるか! ほら、杉田、営業行くぞ」
 と椅子から立ち上がる。
杉田「今日は南北銀行さんでしたね」
 と自席から応じる。
課長「そうだ。今月は何としても南北をものにしないとな!」
 と、横手のハンガーから取り上げた上着に腕を通しながら部屋を出て行く。
 杉田、カバンを2つ持って後をついて退室。

 夜の事務所、残っている社員の姿はまばらである。
杉田「課長、それじゃあボクもこれで失礼します」
課長「おおそうか。お疲れサン! だが、明日の会議資料は大丈夫だろうな」
杉田「ははは。実はお持ち帰りです。このところ残業するとカミさん機嫌が悪くって」
課長「なるほどなあ。俺もお持ち帰りにするかなぁ。んーーー」
 と椅子で背伸びする。
 杉田、資料をカバンに詰め込み、小さく会釈して退室。

―――こんな2つのシーンを並べますと、事実として時間を「飛ばし」たことは分かるかもしれませんが、やはり乱暴でしょう。そこで、このシーンの間にいくつかのショートシーンを映し込みます。
主人公の息子が学校で授業を受けているシーン、同じく娘がアルバイト先の喫茶店で接客しているシーン、花屋を切り盛りする妻が額に汗して鉢植えを並べているシーン、などなどをいくつか差し込んでいきます。つまり、課長の家族の日常の営みを紹介しつつ、全体として時間を「盗む」わけです。家族ドラマなどでよく使われる手法です。

1.「いけね!もうこんな時間か」と会社を飛び出してデートに向かう男性
2.「ごめん!ずいぶん遅くなっちまった」と公園で彼女に会う

こういう運びの場合、彼の移動の時間を「飛ばし」たわけですが、できればここに

1半.公園のベンチで待つ彼女、文庫本を読んでいる。本の上に紅葉した葉っぱが落ちて来て、それを彼女は指先で遊ぶ。

―――こんなシーンをひとつ挟んでおきますと、よりスムーズに時間を「盗む」ことができます。視聴者を退屈させません。

ついつい時間経過の扱いをぞんざいにしがちのボクですが、これは脚本の基本中の基本ですから、きちんと考え・きちんと解決していきたいものですね♪
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by genmuki | 2008-04-09 19:45 | シナリオ小話

シナリオ小話 第28回 最初の空気

今回も前回から引き続いて「予測」ということに関連して「最初の空気」といったことについて考えてみたいと思います。

度々脚本の教書として挙げられる新井一先生の「シナリオの基礎技術」でも論じられていますが、脚本ではこれから展開しようとしているドラマの性質について、そこへつながる空気感・方向性が重要だと思われます。
たとえば上述「シナリオの~」では、シリアスな社会派ドラマを書こうとする時にコメディ顔負けのドタバタから始まってはいかん、と諭しています。視聴者は「なるほど、この映画はコメディ・ドタバタ喜劇なんだな」と思ってしまう。この時に視聴者の映画を見る態度・腹積もりが決まってしまい、途中でそれを覆すのは難しい、としています。
この「最初の出方で視聴者の見る態度が決まる」ということは、ゲームシナリオや連載漫画などでもおおよそあてはまるかと思います。初回のイメージがその後の連載を決めるわけです。
これからシリアスなドラマを書くぞと思ったら、やはりその最初はシリアスで緊張感のあるセリフなり描写で始めなければならない。逆にドタバタ喜劇で貫徹しようと思うなら、やはり最初からドタバタしたコメディ描写をぶつけて「これはドタバタ喜劇なんですよ」とお知らせしておいた方が親切というものです。

ハリウッドのパロディ映画の金字塔「ホットショット」シリーズでは、のっけからパロディで始めます。最初のワンシーンを見るだけで「これはパロディ映画だ」と分かります。
「ミッション・インポッシブル」シリーズでは主人公マーク・ハントの超人的なバカンスの過ごし方から始まります。
もっと極端に言えば、「スターウォーズ」などは最初のスタッフロールで星々がまたたく銀河宇宙をイメージさせていますし、有名な「007」シリーズの最初のワンシーンも銃口から覗いた工作員ボンドの姿を映して、いかにもトリッキーな展開を予想させるに十分なリードです。

しかし初心者はしばしば「最初の空気」で失敗します。
専門学校でシナリオを教えていた折、短編シナリオを添削する時にこの手の失敗はいくつか見てきております。

冒頭は、幼な馴染みと一緒に宿題の話をしながら登校。
・・・ゆったりと時間の流れる学園青春物なのかと思って読んでいくと、どうやらこれはSFバトル物らしかった、だなんてことがあります。

剣道部の練習シーン、派手な大立ち回りと主人公の無類の強さ。
・・・ここから始まるので「姿三四郎」のようなアクション物なのだろうと思って読み進むと、実際にはほのぼのとしたラブコメディだった、ということもあります。

こういった場合には、やはり「最初の空気」を再考する余地があります。
「平和な日常が超科学力の戦いの場へと変じたんです」だとか「運動神経抜群の主人公を先に印象付けておくのです」といった作者の意図は理解できますが、一方の視聴者/読者にも一定の予測あるいは期待というものがありますから、短編ならばなおさらのこと、SFバトル物ならいきなり宇宙人が襲ってくるでもいいし、学園ラブコメディならドタバタとした朝の登校シーンから始めればよろしい。
簡単なことですが、ついつい脚本家の中で「これを書きたい!」という思い付き/衝動で書き始めてしまうので、視聴者の混乱を生んでしまうわけです。

最近の連続TVドラマや映画、アニメやゲームのシナリオでは、“幕の内弁当”的な盛り込み・詰め込みが流行しているように思われます。事実、ドタバタ喜劇の中に涙を誘うシーンがあってはならぬわけではありませんし、シリアスな社会派ドラマの中に心暖まるシーンが出てきていけないわけでもありません。
しかし、脚本の基本としての「最初の空気」は別問題なのです。冒頭で視聴者に作品の方向性をきちんと正しく伝える努力が肝要ですし、最初に設定した空気感はその後ずっと視聴者の中で「前提」になっていくものだと思って臨みましょう。
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by genmuki | 2008-04-03 01:22 | シナリオ小話