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シナリオ小話 第36回 シャレード(4)

今回も「シャレード」の詳論を見ていきたいと思います。
今日は「情景」について考えてみます。

そもそも「情景」とは、辞書をひきますと、

じょうけい【情景・状景】
1 感興とけしき。心のはたらきと自然の風景。
2 人の心に何かを感じさせるような、自然の景色や、具体的な場面。「悲惨な情景」
(小学館国語大辞典)

つまり、「景色」というものは人間の心情と密接に関係し、お人の心にそれぞれの情感を喚起するものであることが重要です。
闇に不安や恐怖を感じたり、朝日に期待や始まりを感じたり、夏の太陽に活力を、冬の曇天にアンニュイを感じたりします。そして、これらは「シャレード」として非常に大切な要素のひとつです。

舞台演劇からフィルム化された映像への変化の中で最も大きな要素は、カメラが映した世界を視聴者も見る、という大原則です。
先に述べたように、舞台演劇では「見よ、あの太陽を」と言って空を指差さねばなりません。古代ローマの劇場遺跡やオペラ座のような劇場を思い起こして頂ければちょうどよいでしょうが、昼間の上演でも夜のシーンを演じる必要がある時、ナレーションで「そして夜は更け行く」と知らせ、登場人物は「何と深い夜の闇であろうか」と叫びながら夜を演じます。現在映像ではこの必要がありません。夜のシーンは夜に撮影します。あるいはスタジオの光源を落として夜を作り出します。最近だとCG合成の夜すら可能です。

さて、脚本で「情景」はどのように用いるのか考えてみましょう。
そもそも「情景」とは辞書でひいたように「景色と人間の感情」なのですから、心情を表現するものとして利用します。
ここでも前回述べたように、「象徴」としての表現が重要です。朝日は再生や再開、明るい昼の陽は活力、夕日は終息や休息、といったようなものです。
しばしば夕日をバックに別れのシーンを描きます。勇士がいよいよ決戦に出かけるのは朝です。こうすると、景色自体が、ここで展開するドラマの内容を視聴者に予感させるものとなり理解を助けると同時により感慨深いものとしてくれるはずですネ♪

もうひとつの「象徴」表現は、登場人物の個人的感情を景色によって表現する方法です。
これから果たし合いに出かけようとする一人の浪人。頃合いはいよいよ夜更け。この時の彼の心情を、たとえば見上げた時に空に見える月で表現するのが「情景」です。
月がけざやかに満月、雲ひとつない明るい月夜だ、ということであれば、彼の決意の晴れ晴れしさが伝わるかもしれません。
逆に月が赤焼けして赤月であれば、奇妙に不安をかきたてられます。彼の心情もおおよそ不安でいっぱいでしょう。
鋭い三日月ならばどうでしょう? 朧とかすむ月ならどうか? 見上げたその時に黒く厚い雲がかかって月の光が遮られたら?
この浪人のセリフで「何とも不吉な予感がする」と言わせるのは単純です。すぐれた脚本では実に巧みに「情景」が用いられています。
照明の当て方や色の作り方でも登場人物の心情を表わす「情景」は作れますが、これは照明効果さんや美術さんのお仕事となるのでここでは割愛しますが、脚本家が「海の向こうを見る、月に黒い雲がかかる、一陣の強風が彼の正面から吹き付ける」程度の記述を書いても決してバチはあたりません(これすら喜ばない監督さんもいらっしゃることにはいらっしゃいますが)。

また、「情景」とは大きな自然だけを指すのではありません。
よく使われる表現として、一輪ざしの椿の花がポトリと畳の上に落ちるようなものがありますね^^ これは考え方として「小物」でもありますが、その辺りの厳格な区分はさておき、色々なものが「情景」として利用されます。
時代劇で農民が「ワシらは来る日も来る日もこうして耕し」と語るシーンで、水車なんかを映してモンタージュするのもよいでしょう。
寂れた村に着いたばかりの探偵は、廃屋となった古い民家の破れ障子に障子紙がパタパタするのを見て、いよいよこの村で起こる事件の先行きに不安を感じたりするでしょう。同じような村で、カラカラララ・・・と風に吹かれた桶が転がったりするのも、なかなかパンチの利いた「情景」です。

「シャレード」の基本定義に戻りますと、シャレードとは『セリフを用いないで状況や心情を述べること』でしたから、以上のような「情景」を、この役割に当てはめて使っていくことになります。

お菊「左衛門殿! どのようになさろうとおっしゃるのです?」
左衛門、無言で眼下に広がる山並みを見渡す。

―――こうすると、左衛門の心は広い世界へ向かっているように思われます。彼はいよいよ覚悟を決めて村を出ようというのでしょうか。立身出世の夢でもあるのでしょうか。

お菊「左衛門殿! どのようになさろうとおっしゃるのです?」
左衛門、無言で坂本村を見渡す。

―――このようになると、村に留まることを思い、後ろ髪を引かれているのかもしれません。それでも村のためにと決意を固めて何かをしようとしているのかもしれません。
彼が何を見るか、つまり、左衛門の返答に当たる箇所で何をカメラで映すかといったことが、セリフに変わって彼の心情を語っているわけですから、これこそ「情景」と言えます。

最後に、このように「情景」を「シャレード」として用いると、しばしば「このシーンで左衛門は村を見たが、これはどういう意味か?」と問われることがあります。
しかし脚本家としては、「この意味」を明確な何らかの言葉にするのを避けるために「情景」によるシャレードを用いているわけですから、厳密に説明できないことが多々あります。「わからないことはわからない」というのがボクの持論ですから、脚本家にこういったものを論理的に説明する義務はないと考えます。
その上で「ここで用いられる『雪だるま』では、イマイチ心情としてピンと来ない」といった率直なご意見には耳を傾けねばなりません。「じゃあ、雪に埋まる万両の赤い実などはどうでしょう」とやるわけです。

最近の脚本は視聴者によって理解に差異のあることを認めない傾向にあると言われます。このせいで、重要な情報はセリフに出して明確化してしまいます。「私は淋しいのです」と言えば、原則としてそれ以外の解釈などありません。「情景」を用いて、無言で暮れ行く街の空の夕日を見上げても、「淋しいのです」という内容が伝わった保証はありません。
「小物」でも述べましたが、「情景」もまた「象徴表現」である以上、明確な解答はありません。何を用いても自由ですが、その結果、どの程度のお人にどのような心情が伝わったのかは最後まで知ることができません。
だからこそ、我々脚本家は、常日頃から周囲の多くの人の感じ方・考え方をつぶさに観察していなければなりません。このような積み重ねからしか、ボクたちは何が「情景」としてふさわしいかという答を得ることができません。
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by genmuki | 2008-05-28 14:04 | シナリオ小話

シナリオ小話 第35回 シャレード(3)

「シャレード」の第3回目、具体論の2回目になります。
今回は「小物」の利用について考えてみましょう。これは「小道具」とも呼ばれます。
(以前の拙連載「動作と小物」でも少し触れていますので、そちらも合わせてご参照下さい。)

古い時代の活動写真等にはズームアップの技法がありませんでした(皆無ではありませんが技法としてきちんと意識されてくることはありませんでした)。これはカメラの性能やフィルムの解像度に依拠する問題でもありますが、やはり映画映像というものが未だ舞台演劇の延長線上にあったせいでしょう。
翻って、今日の映像ではズームアップは当然の技法です。―――が、主に初心者の脚本では、この技法が十分に生かされていない傾向にあるように感じます。初心者はついつい「立ち芝居」、つまり、2人以上の人物が同一フレームに映った状態で会話することを中心に脚本を書きがちです。

「シャレード」における「小物」の利用を、主に2つに分けて説明したいと思います。
ここでは、1つ目を「象徴利用」、2つ目を「情報提供」と呼んでおきます。英語で言うなら「シンボル」と「インフォメーション」です。

<1.象徴利用>
「物」に込められた『象徴的な意味合いを利用する』こと―――「小物」を用いて作劇することの最大の意義がこれです。
それぞれの「小物」は単なる物体でしかありません。しかし、それぞれの事物には、おおよそ誰もが想像/連想する“意味合い”があります。

いつくか例を挙げますと・・・

夜も更けた頃、外は雪が降り深く積もったまま。
(主人公の親兵衛は道に迷い、1軒だけ立つ小さな家に駆け込んで一晩の宿を得ています)
何かを擦る物音を聞き付け、親兵衛は布団から這い出す。
親兵衛「こんな夜更けにお婆さんは何を・・・?」
 と、心の中で疑問に思いつつ、こっそり障子の隙間から土間を覗く。
老婆が一心不乱に包丁を研いでいる。

―――有名な日本の昔話「やまんば」の一幕です。「包丁」という小道具の不気味さが、これから親兵衛の身に降りかかる不吉を象徴しているわけですね^^
また別の例を幾つか挙げれば・・・

A.誕生日のプレゼント、包みを開いて見ると手編みらしいセーター
 → 贈り主の好意やしおらしさを象徴
B.クリスマスの夜、寝入った子供の枕許に置かれた靴下
 → サンタクロースを信じるこの子の純真さを象徴
C.病院に入院している男の子、手付かずの食事がわきへ置かれたまま
 → この男の子が食欲がないことを示し、同時に消沈した気持ちなどを伝える象徴

このように実に色々な例が考えられると思います。
このような「小物」の象徴性を上手に使うために、これをセリフで2重に表現(要するに確認作業)するようなことは避けねばなりません。
Aの例ですと、「手作りなんだね」「あんまり上手にできなかったけれど、貴方を想って頑張ったのよ」なんて会話はしない方がいいですね。セーターを手に取る男性、ジッとセーターを見る(カメラで映す)、ここでそれが手作りであろうということが視聴者に伝わったので、男性は黙ってそれを着てみてもいいですし、贈った女性は恥ずかしげにうつむくだけでいいかもしれません。
Bでも「光太郎のやつ、サンタさんをまだ信じてるんだな」なんてことをパパが口に出す必要なんてありません。
Cでも「また食べてないの」「食べたくないンだ」なんてやり取りをさせる必要はありませんね。
―――このように、「小物」の利用時は決してそれをセリフで説明してはいけません。なぜなら、これは『セリフを用いる代わりに別の物で心情を表現する技法』であるところの「シャレード」なのですから。

<2.情報提供>
こちらの「小物」の利用は単純明快です。視聴者に情報を提供するために、セリフ以外のことを用いるだけのこと。
例を挙げるまでもありませんが・・・

カメラで時計を映せば、劇中の現在時刻が分かります。
「合格」と書かれた手紙を見れば、受験に成功した結果が伝わります。
パソコンの画面に「新着メール:1件」と表示されていれば、電子メールが到着したことが分かります。

―――どれもが、あまりに当たり前のことです。当たり前すぎるのです。しかし初心者はこの種の「シャレード」が最も不得手です。
時間を話題に扱う時、「今何時だい?」「今かい。えっと、9時だね」とやってしまう。
試験の結果通知を受け取った人物に「ごっ、ごっ、合格だー!」と叫ばせてしまう。

メールが届いたパソコンの画面についてもう少し言及しますと、「メールが来た?」と言わせる意味はまったくありませんから避けるべきで、もう一歩踏み込むなら、「よし、来た!」とか「まさかこれは・・・?」なんて言わせるならOKです。なぜなら「電子メールが届いた」という情報はすでに視聴者に提供されているのですから、ここで人物が語るべきなのは心情なり反応なのです。

何かの「小物」を1回カメラに映せば間違いなく伝わる内容を、いちいちセリフ芝居に仕立てて視聴者に伝えることは、まったく上手ではありません。このことは非常に重要で、逆にこの技法を用いないとすれば、それは古代演劇にまで退化してしまいます。

以上のように2つの側面から「小物」の例を挙げて説明してきましたが、この「シャレード」における「小物」を効果的に使うことのできる脚本家になるために最重要の課題は「観察眼」です。
常に人間の行動と感性を観察して下さい。
――時間を知りたい時、彼はどのようにしているだろうか?
――吸い殻でいっぱいになった灰皿を、隣人はどのように思うだろうか?
――鋭い刃物を目にした時、自分はどのように感じるだろうか?
――枯れてしまった花瓶の花を見て、恋人は何を思うだろうか?
日常の生活の中で、いつもそういったことに関心を向け続けなければなりません。そうしなければ、「小物」の象徴的な意味合いなどというものが自分の中に入ってきません。だから、いざ脚本を執筆する段で使えないのです。
周囲の友人たちに「こういうものがあったとして、見るとどういう気持ちになる?」と問うてみてもよいです。誰かがギョッとした時、「今、何を見てそういう顔をしたの?」と質問してみて下さい。眉間にしわを寄せて物を見ている母親を目撃したら、「何を見ているの?どうしたの?」と尋ねてみるべきです。

身の回りに溢れる「小物」に、ボクたち人間は様々な思いを投射します。
脚本家にとって、「小物」を「シャレード」として用いるためには、1にも2にも「観察眼」なのです。身の回りのあらゆる雑多の環境/状況に興味を持てない脚本家はいけません。なぜならボクたち脚本家は環境と心情を描く仕事をしているのですから。
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by genmuki | 2008-05-21 10:17 | シナリオ小話

シナリオ小話 第34回 シャレード(2)

前回からの続きで「シャレード」について見ていきたいと思います。
前回は「シャレード」についての理解を助けるため、歴史的な演劇と映像の進歩についてまとめてみましたが、おさらいしますと、脚本技能を論じる上での「シャレード」とは、セリフを用いずに何かを表現し視聴者にそれを理解させる/感受させることの総称です。
とっても大事な分野で、以前からボクも後輩・部下・知人含め周囲の脚本に携わる皆さんに「シャレードで表現することが重要だ」と力説してきた立場ですので、何回か連続で掲載していきたいと思います。これまでも連載の内容とたくさんかぶることも出てきますが、大事なことについては何度考えてみても考えすぎることはないと思いますので、よろしくお付き合い下さい♪

さて、「シャレード」の具体論の第1回目として、「動作」を取り上げてみたいと思います。拙連載「小物と動作」でも扱いましたが、「小物」については次回予告! 今回は「動作」です。

そもそも、「シャレード」とは“セリフを用いずその他の要素から作劇すること”ですから、劇は「セリフと動作」から成り立っていることを考えれば、実に「今さら何をいうか」というくらい基本的なことです。
前回も書きましたが、映像では一定のものをズームアップして画面一杯に映すことができますから、俳優の表情だけでなく、手の先から足の先まで、いかなる部分をも視聴者に見せることができます。漫画やアニメなどでも同じことが言えます。

いくつか例を挙げていくのが分かりやすいでしょう。

まず、コミカルな表現でよく見られる、3人で会話している時に「テーブルの下で隣の友人の足を踏む」表現。「そっと脇の下をつねる」でも似たようなものでしょう。
この演技は、セリフで表現すれば「おい、今それを言うな!」とか「なんてこと言い出すのよ!」といった戒めの意味合いを持つことになります。それをセリフで言わずにこうして動作で表現することによって、単にセリフで言った場合より、さらに生き生きと『この場でそれについて言及して欲しくなかった』人物の心情が強く伝わることになります。あるいは、第3の人物の前では愛想笑いしている人物の実際の感情を表現するなど、セリフで「それを言うな」とやるよりは面白い効果を生みます。

時代劇、挑戦状を受け取り、いよいよこれから果たし合いへ出かけようという覚悟のシーン。
主人公は辺りが暗くなるまでじっと部屋の中で正座して精神集中していた。遂に時間が来たようである。ときて・・・
―――セリフで「では行って来る!」と叫で刀を拾い上げる
よりは、
―――黙って刀を拾い上げ腰に差す、じっと自分の手を見つめる
このような演技にした方が、無言であることから視聴者の想像をかきたてます。また、「じっと手を見る」箇所ではカメラが彼の手を映すでしょうが、その際、それがタコだらけの汚い手であれば、まさに彼が刀の道を一筋に生きてきたという人生の重みが伝わるかもしれません。

もうひとつの例を挙げます。これは新井一先生の著書の中に紹介されている例です。
口では「あなたのことなんか好きャしないわ」なんていう女性が、「あ、ちょっと待って」と男の背に近付いて、肩に付いた小さなほこりを取ってやる、というものです。本当に好きでもない男の服に付いているゴミを目ざとく見付けて取ってやる女性なんてものはいませんから、こういう「裏返しのセリフ」と「動作」の組み合わせは、まさにドラマの妙を感じる一例ですね^^

刑事番組などでも、渋い警部なりの主人公は、「おい、行くぞ!」と口で言う代わりに、立ち上がって椅子に引っ掛けていた上着を勢いよく羽織ったりします。別に室内が寒いから羽織り直したわけじゃないということは、ほとんどの視聴者がわかっています。
犯罪アクション映画などで敵のアジトに踏み込んだ先での銃撃シーン、サッと物陰に隠れた主人公刑事はその場でリボルバー拳銃のリボルバーを横に外して残弾を確認したりします。「あと何発あるんだ」とか「残り2発で勝負を決めなきゃ」と口に出して言いません。喋ってしまうと居場所がバレてしまいますからね(笑)。この刑事の『残弾を確認する』という動作は、視聴者に今後の展開への緊張感や覚悟を与えます。それはそのまま、この主人公の心情です。危険な現場だからこそ慎重になるし、残弾が少ないと覚悟も決めなければなりませんから、いよいよ物語はスリリングな方向へ向かいます。
時代劇の一騎討ち、相手の最後の太刀に対してわざと自分の刀を引っ込めて敗れる武士。「貴様、なぜ!」「何も言うな。うぬの勝ちじゃ」と来る。こういう場合に「もうよいのだ。儂は負けてやるぞ」と口に出すのは論外でしょうし、動作を描写する以外にこの心情なりドラマを正確に伝える術はありません。

拙連載「無言」の回にも述べましたが、おおよその「無言」は、脚本上では「間をとるという演技」と解釈できます。その上で、無言で拳を握り締める、無言で見つめる、無言で顔を背ける、といった風に、「無言」を選択した時には、セリフの代わりに画面には何が映されるのかをきちんと脚本上で想定するべきです。
(繰り返し作法論になりますが、全ての演技を事細かに脚本に記す必要はありません。ドラマや人物の心情が大きく変わると思われる部分は脚本家が間違いなく記すことにし、それ以外の細かい部分は演出さんや監督の采配として支障がないでしょう)

重要なことなので何度も繰り返しますが、「シャレード」とは“セリフを使わずに心情や情景を説明する技法”のことです。
コミュニケーション論では、人間のコミュニケーション要素のうち、言語内容は2割にも満たないと言われています。残り8割を非言語コミュニケーションと言い、さらにこの残り8割の半分以上を占めているのが「見た目」「動き」「身振り」等の視覚情報だと言われています。
また別の分野では、会話中の人間は会話する相手の手や目や足や肩といった部分に「動き」がある瞬間、自動的にそこに視線を移し思考や意識の大半をその動きに向けるとの研究結果が出ています。
―――このような人間のコミュニケーション能力の特性を考えた時、主に言語コミュニケーションである「セリフの内容」によって表現される部分は、映像ドラマのほんの一部分であることが理解されます。逆に言えばそれだけ「シャレード」が重要だということであり、また、「動作」から心情を汲み取るということが何ら特殊な能力ではないことが知れます。
「○○○の動作(表現)から×××という心情(主題)を読み取ってもらえるだろうか」と脚本家はいつも不安です。ボクもいつも不安でたまりません。(苦笑) ・・・しかし勇気を振り絞って「シャレード」にすべきです。セリフに逃げることはいけません。


※補足
上述で「セリフ」を「主に言語コミュニケーションである」としましたが、厳密にはそうは言い切れません。なぜなら「セリフ」は言語的な意味合いの他に、非言語分野の音声要素を持っています。これは音量や音低、その変化や抑揚等のことを指します。ここではコミュニケーション論の詳細は省きますが、脚本家には学ぶ見返りの大きな研究ですのでいつか紹介してみたいですね★
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by genmuki | 2008-05-14 18:56 | シナリオ小話

シナリオ小話 第33回 シャレード(1)

第33回は「シャレード」について考えてみましょう^^ といっても、今回は「シャレード」とは何かということを紹介するに留め、具体的な手法や実例は次回以降にゆずりたいと思います。

さて、技法書などでも「シャレードが重要だよ」とは書かれているものの、この言葉の意味は存外に広く、なかなか一言と説明できるものではありません。辞書によると「シャレード(charade)」はフランス語で、見せかけ、ジェスチャー遊び、身振りで示されること、といった意味であるようです。
特にシナリオでは「セリフ以外の事柄で何かを表現すること」と広義に考えるべきです。

歴史的な観点から、「シャレード」とは何なのかといった理解を助ける進歩・変化をおさらいしてみましょう。

その昔、演劇の時代、脚本には今よりずっとセリフが多かったのですが、この最大の原因は『言葉で表現しないと伝わらない』からでした。比して、今日のようにフィルムを編集して制作する映像脚本となってからは、画面に映す豊富で精細な映像を用いて実に多くのことがセリフで表現しなくてもよいようになりました。
たとえば演劇では、セット(舞台装置)に限界があるため、まずは場所の雰囲気についてセリフで説明しなければなりませんでした。「なんと暗く不気味な森であろうか」とか「おお、見事な眺めの素晴らしきテラス。国の端々まで見渡せそうだ」といったセリフがそれです。今日ではカメラがそれを映し、視聴者に示してくれます。
その他、時間についても「もうこんなに更けてしまったではないか。冬の夜はなんと早いことその帳を下ろすのか」といった具合、人物の様子についても「仕立てのよい服を着てはいるが、ところどころが破れほつれているではないか」といった具合です。劇場すらなかった古代の演劇では、それこそ大部分をセリフで表現しました。

また、カラーテレビとカラーフィルムの普及以降、白黒では説明が必要だったこともその後は説明しなくて済むようになりましたし、脚本家や監督は色に関する特別な配慮も不要となりました。
有名な話、故・黒澤明監督は白黒フィルムに映して出来上がった椿の色がイメージに合わないと、椿を墨で真っ黒に塗って撮影をやり直したそうです。血を思わせる真っ赤な椿を映したかったが、それを実際にフィルムに収めると薄灰色にしかならなかったからだそうで、これじゃあドギツいまでの血をイメージはさせられん、というわけです。
同様の理由で、白黒時代のチャンバラ映画やヤクザ映画では、飛び散る血の色の濃さを表現するため、実際の撮影では墨を使っていました。真っ黒の墨を口から噴き出しながら撮っていたとは驚きです。
これは脚本家にも関係ある話で、有名な「幸福の黄色いハンカチ」はカラー映画だからこそ出来たお話であり、白黒映画なら迷わず「白いハンカチ」であったでしょう。オランダへ旅行しに行くシーンがあれば、有名なチューリップ畑を目の前に、「色とりどりだわ」「実に多くの種類があるんだねえ」と会話しないことには視聴者に伝わりません。

さらに、フィルムと映写機の進歩もシャレードには大きな影響を与えました。
昔の8ミリフィルムを現在のテレビサイズで見ると、画がとんでもないほどボヤけて見えます。看板の文字も正確に読み取れません。これはフィルムが言葉通りに8ミリ幅しかなかったからです。テレビ用は16ミリ、映画は35ミリですが、これも現在は共にデジタル化しており、実質の解像度は飛躍的に向上しています。
つまりどういうことか? ―――フィルムの解像度が低く映写そのものの技術も未発達だった時代には、手紙を画面に大写しにするような手法は存在しえなかったのです。存在したとしても、おおよそそれが手紙であろうと分かった程度で、実際の作劇上は俳優が声に出してそれを読んでいました。
今日は、「博士が愛した数式」に度々登場するように、登場人物が黒板に文字で書いたことを直接視聴者に届けることができます。また、ノートの端っこに小さく小さく書かれた「だいすき」の文字にズームアップすることもできるようになりました。
花束に仕込まれた小さな盗聴機を画面に映して視聴者に突き付けることも可能ですし、推理ミステリーでは探偵が小さな毒針をつまみあげて「これが今回の凶器ですよ」と言っても差し支えないことになりました。昔なら「この針が~」「なんと、針ですか!」「確かに針ですな!」とやったわけですが、今日は「これが~」「おお、これが!」「なんと、こんなものが凶器だとは・・・」で視聴者に通じる時代になったのです。
もっと言えば、俳優の細かな表情が読み取り易くなり、昔のようにまるで歌舞伎のような派手なメイクをする必要がなくなったことから、以前なら「そんなこと言うな、わかってるさあ」というセリフは、「そんな顔するな、わかってるさあ」というセリフで可能だということにもなりました。

この他にも、撮影技術の進歩やCGの導入により、多くのことがセリフで表現しないでも済むようになりました。
例をいくつか挙げると、有名な「義経の八艘飛び」を映像にするとします。これは壇ノ浦の戦いで、劣勢になった敵が義経を道連れにしようと飛びかかって来るのを、幼名・牛若丸としても有名な義経がヒラリと飛び上がってかわし、8艘も向こうの船まで飛び移ったという話です。
昔であれば、船から飛び上がるシーンと別の船へ着地するシーンを別々に撮影しておいてそれをつなげ、脚本家は「何と8艘もの距離を!」と言わせます。これに対し、現在ならば、たとえば本当に8艘向こうへ飛んでいくワイヤーアクションを撮ることも、CGで合成して本当に8艘向こうに着地させることも可能です。そうなるとセリフで「8艘分の距離を飛んだ」と説明させる必要はなくなります。
また、昔は火事のシーンなどは本当にセットに火を放ったりしていました。今も実際の炎や爆発を用いることもありますが、CGの登場によって低予算で非現実的な火事をいくらでも描けるようになったので、「火事だよ、助けてー!」「火事だ、火事だ」「きゃーーー、火事よー!」と口々に叫んで町人が逃げ惑うという脚本を書かなくてもよくなりました。必要ならニューヨーク全てをだって火事にできるのですから、「なんてことだ、火事はNY全域に広がっている!」というセリフは要らなくなりました。代わりにNY全域の火事の映像を流しておいて「まるでこの世の終わりだ・・・」と言わせることが可能になりました。

他にも色々と作劇に影響を与える歴史的な進歩はたくさんあるでしょう。音の進歩もそうですし、音楽のミックス編集技術の進歩などもそうです。が、ここではこれくらいにしておきましょう。

―――つまり、以上のいくつもの箇所で「Aとセリフで言わずに済むようになった」「代わりにBという表現で視聴者に伝わるようになった」という紹介のしかたをしてきましたが、これが全て「シャレード」であり、今日の脚本家であるボクたちは特にシャレードについて学ばなければならないということがお分かりいただけたのではないでしょうか。
長くなりますので、続きは次回に♪
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by genmuki | 2008-05-07 19:13 | シナリオ小話

シナリオ小話 第32回 人物の区別

第32回の今回は、「人物の区別」について書いてみたいと思います。
しかし、この「シナリオ小話」はあくまでも脚本の技能/技術論であり、おおやぎ本人の備忘録/復習を兼ねてシナリオ初心者向けに書いておりますので、「キャラクターの書き分け」といった時、どのような人物がウケるとか、そういうことは論じませんので悪しからず。

この連載でも度々引きます新井一先生の本によりますと、視聴者に人物の区別が分かるように脚本を書かねばならないと随所で書かれています。
どういうことかと言いますと、

男A「この前の取り引き、営業が大金星だったみたいだね」
男B「最近の営業は頑張ってるね」
男A「我々設計部門もウカウカしてらンないよ」
男B「ご時勢がご時勢だからねえ」

こんな会話があったとします。この時、AとBのセリフを入れ替えても内容が変化しないようなら、それは書き分けが上手でないと考えます。要するに、Aさんの性格や立場、思想、信条...といったものがほとんど読み取れず、Bさんのそれも読み取れないからです。視聴者にはAさんがどんな考えを持ちどんな立場にあるのか分からない。

男A「この前の取り引き、営業が大金星だったみたいですね」
男B「ったく。最近の営業はよくやるなぁ」
男A「我々設計部門もウカウカしてらンないですよ」
男B「まあ、ご時勢がご時勢ってのはわかるけどねえ」

Aさんの口調の最後だけ「ですます調」にしてやって、同じく相槌を打つ立場にあるBさんのセリフを上記のように調整してやりますと、Aさんはやや真面目な後輩であり、Bさんはやや無気力な先輩であるような印象に変わります。こうするとAさんとBさんの人間関係が視聴者に伝わることになります。

通常のシーンではセリフ持ちの人物は画面に登場していますから、あまり書き分けを要しないかもしれません。しかし、隣室から声だけが聞こえる場合や、空や川などの情景を映しておいて会話させる場合、電話の場合、あるいはよくある回想シーンのように画面の人物は1名で過去の会話をカブせて思い出させるような場合では、やはりセリフだけで人物の区別が付かねばなりませんし、その区別は「色々な意味で明確」でなければなりません。

「色々な意味で明確」な区別を作るためのポイントは幾つかあります。

1.口調の違い
2.言い方/価値観の表現とその違い
3.俳優の声そのものの違い
4.人称の違い

―――等があります。
1.の「口調」については言うに及ばないでしょう。「ですます調」を使うのは目下の人物です。
2.の「言い方」はその人物の性格や感じ方を示しています。ここから性格や立場の相違が読み取れます。
3.の「俳優の声」は、ボクたち脚本家が厳密なキャスティングを決定するわけではないので監督さんらに一任されますが、一般的に見て中年男性であろうという役柄に18歳の女性をキャスティングすることはないのですから、中年男性3人の会話などを書く時には、必然的にフィルム上での声が似るであろうことを予想はしておくべきでしょう。
4.の「人称」については、「1人称」と「2人称」「3人称」のそれぞれの違いを用いることができます。少し例を書いてみますと・・・

さゆり「慶子は詩織さんのこと、知ってるわよね?」
慶子「知ってるけど、私、あの子のことは嫌いだわ」
さゆり「あら。アタシはあの先生のこと、嫌いじゃないわ」
慶子「何だか彼女を見ると、お高くとまってるのねと感じちゃうのよ」

さゆりは自分のことを「アタシ」と言いますし、慶子は自分のことを「私」と言います。実際の映像では字面ほどの違いを生じませんが、それでもきちんと区別して演じてくれると思いますので、やはりこれは人物の区別に使えます。
また、この会話にはもう一人「詩織」という名の女性が出てきますが、さゆりは彼女のことを「詩織さん」「先生」と呼ぶのに対して、慶子は詩織のことを「あの子」「彼女」と呼んでいます。後者の方がよそよそしい呼び方でしょうから、さゆりと慶子は詩織に対しての異なる印象を抱いていることが分かります。
しかし、そもそも上記の会話では、さゆりは詩織のことを「嫌いじゃない」と明確に言っていますし、慶子は「嫌いだわ」と言っています。そこで、よりスマートにしてみると・・・

さゆり「慶子は詩織さんのこと、知ってるわよね?」
慶子「あの子ね、知ってるわ」
さゆり「あら。悪い先生じゃないわよ」

―――こんな風に、「あの子ね」というぞんざいな呼び方ひとつで、慶子が詩織についてどう思っているかが伝わり、さゆりとの立場の相違が視聴者に伝わります。

セリフを取り替えてみて違和感がないようであれば、それは作者の中でも人物の区別が明確でないからであって、ドラマとは異なる性質を持つ人たちの様々な価値観や感じ方が交錯するからこそ生まれるものです。
『取り替え可能な』人物たちが会話をするだけなら、「自民党は解散すべきだ」「そうだそうだ」「そうしろ」「いいぞ」の、ただの合の手、野次馬たちの罵声の如くになってしまいます。あるいは、「ひどいわねえ」「そうよねえ」「ねえ~」「うん、ひどいわねえ」「ホントよねえ」のような井戸端のコメディになってしまいます。

意外と「人物の区別は明確にせねば!」と念じて脚本を書いているわけではないので、しばしばボクでも「どっちが喋っても同じこと」を書いてしまいがちです。気を付けていきたいですね♪
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by genmuki | 2008-05-01 04:09 | シナリオ小話