<   2008年 06月 ( 4 )   > この月の画像一覧

シナリオ小話 第40回 脚本の書き方(3)

「脚本の書き方」と題して『脚本とは何か』といったことを考察するシリーズの第3回目です。今回は少し具体的な「書き方」に触れてみたいと思います。

まずは「縦書き」と「横書き」の問題。
先日、知人と話している時に質問されたのが、脚本は「縦書き」で書くべきか「横書き」で書くべきかということでした。
最近は99%の脚本がワープロ入出力ですから、縦書きと横書きの変換はかなり容易です。このため、入力は横書き、台本として出力する時には縦書き、というのが多く見受けられます。
「縦書きか横書きか」についてボクの結論を先に言いますと、入力に関しては「どちらでもどうぞ」です。出力(印刷)については俳優さんや監督の希望に従えば良いと思います。
しばしば混同されますが、実際の台本が縦書きであるという理由で、脚本家が縦書き入力をしなければならない、ということはまったく当てはまりません。前述のように、ワープロ使用により入力と出力は分けて考えることができるので、脚本は縦書きで書かれなければならないなんていうことはありません。

脚本家個々人の感覚としても、ネットで少し検索してみると、「縦書き入力すると形容詞が増えて分量が増す」というお声もあり、逆に「横書きだとスラスラ書けるが分量ばかりが増す」というお声もあります。他にも、「縦書き入力するといつものパソコン環境と異なり意識して首を上下するので肩がこる」というお声もあれば、「横書き入力を長く続けると酔う」というお声もある。ボクの知人でも「縦書き以外では脚本を書けない」という方がおり、「横書き入力以外のワープロ入力なんて考えられない」という方もいます。

―――要するに、脚本家だから縦書きで脚本を書かなければならない、とは言えないのです。そもそも外国には縦書きの脚本なんて(ごく一部を除いて)存在しません。
また、しばしば俳優さんたちの間から「縦書きは(目線や首の動きの関係から)台本として適っている」とのお声が聞かれますが、やはりハリウッドの名優たちは横書きの脚本で上手に演じています。やはり、要は慣れ。そして文化だということです。
自分が書き易い環境で書けばよろしいかと思います♪

次に「漢字」と「言葉」の問題。
ト書きではできるだけ平易な言葉を選び、脚本全体では漢字を多用せずに開いた(ひらがな等で表記する)方が良いのか? これは少し昔に脚本を学ぶ学生さんからご質問いただいたことです。
もう毎度のパターンで恐縮なのですが、これについてもボクの意見は「脚本家の個性なのでご自由にどうぞ」です。

確かに撮影現場やアフレコの経験上、俳優さんらから「この漢字は何と読むのですか?」と質問されることはあります。収録前に脚本を読んで来られた俳優さんが、「自宅で調べたけれど分からなかったんです。収録前にこの言葉の意味だけ教えて下さい!」と駆け込んで来られることもあります。
こういうことがあっても、おおよその場合、問題は容易に解決します。辞書をひけば良いし、周囲の人に尋ねたり、収録の際に監督や仲間に確認すれば済みます。ですから、脚本家があまり意識する必要はないと思っています。

ただ、言葉の表現にはそれぞれに「空気」「ニュアンス」があり、脚本においてはこのことの方がずっと大切です。
セリフについては、この登場人物の人物像に関わることなので、この人物が「慚愧の念に堪えぬ!」と言うか「残念でならない!」と言うかは脚本家にとって大きな問題です。
同様に、ト書きにしても、俳優さんや監督にニュアンスを伝えるという意味合いで考えるなら、「煩悶の表情を浮かべる」と「困った顔をする」の差は大事だと考えるようにして下さい。
情景を描写する記述、「渺茫たる海原、荒波の巷」と書いてあれば、撮影さんや編集さんは否でも応でもこの脚本の目指す世界観を意識するでしょう。「広い海、波が高い」と書けば親切かもしれませんが、より重要なことは、それが脚本家として映像化したいと思った世界観かどうかということなのです。

もちろん、いわゆるワープロ病になって無駄に漢字を書きまくることは読み手にとって不親切ですから、ここは適度に調整したいところです。
大事なのは、脚本だってひとつの創作物であり作品であり、読み手が監督や俳優さんであるというだけであって、そこには作品オリジナルの世界観を持っているべきだということ。
厳密な時代考証とシリアスなドラマを持つ時代劇の脚本で、いかにト書きであるとは言え、「ストレートに進んで」「ここからダッシュ」「勢いよくタックル」「レターケースから取り出し」とカタカナ語が並ぶと何だかうんざりしますよね。
読み手にとって空気感の伝わる「書き方」だって、脚本の作法として少し意識すべきだと覚えて下さい。

今回はこの2点についてボクの意見を書きましたが、次回もこのような素朴な「書き方」について過去のやり取りなんかを思い出したら(笑)書いてみたいと思います。
もちろん、「これについてのおおやぎの意見はどうだ?」というご質問も大歓迎です★
[PR]
by genmuki | 2008-06-25 17:34 | シナリオ小話

シナリオ小話 第39回 脚本の書き方(2)

あくまでも『脚本とは何か』といった考え方を主眼に考察する「脚本の書き方」の第2回、今回は「時間を考える」ことについて考えてみたいと思います。
脚本は映像を作るための材料であり台本であることを何度も強調してきましたが、脚本を元にして出来上がるのが映像であることを考えますと、「時間」の概念は大変重要になります。
しばしば脚本コンクールや公募の募集要項にて、「原稿用紙○枚程度の」とか「2時間前後の上映を前提とする」とか「視聴時間1時間の番組を想定する」といった記載を見ます。これはどれも出来上がった映像の時間(「尺」と言います)を言っている言葉です。脚本はそれを映像にした時にどれだけの長さになるのかといったことを想定しないといけません。

しかし、必ずしも原稿の分量から尺が導き出せるわけではありません。
大切なのは『想定される映像の中身でしか尺は計れない』ということです。

いくつもの柱を立て、様々な人物の表情や行動を切り取った部分があるとすれば、その部位の脚本はもしかすると簡単に原稿用紙5枚にも10枚にもなってしまうかもしれません。けれど、これがフラッシュバック的に素早く視聴者に示されるべき内容であれば、上映時間は20秒かもしれません。
逆に、お互いにまくしたてるような会話の洪水を書いた時、原稿用紙では3枚の内容が映像では2分にも3分にもなる可能性があります。撮り方によっては5分にもなります。
映像美を追求するような作品の場合、たとえば「The Piano」(邦題「ピアノ・レッスン」)などを考えますと、セリフの記載もなく、ト書きにすれば「AとBはお互いの身体に触れ合い、森の中をざれながら並んで駆けて行く」といった1行で記されるであろう箇所が、幻想的な映像と秀逸な背景音楽を伴って実に5分も紡がれているかもしれません。

このような「時間」と原稿量の食い違いは常に生まれます。「原稿用紙○枚で○秒」という考え方はあくまで平均値に過ぎないということを忘れないで下さい。これは監督や演出あるいは編集を志す方にも言えることですが、肝心なのは脚本を読み返しながら「自分の想定するこの映像はこんな感じで~」とより具体的にありありと想像して尺を計ってみることです。

上述と同じことで、話し方や会話のあり方そのものも尺に大きな影響を与えます。演技内容も同じです。
「ねえねえねえ、それってなぁに?」というセリフひとつをとっても、活発な女の子が横から覗き込んで早口で尋ねる場合には2秒かもしれませんし、まだまだ舌足らずな幼女がようやくはいはいしてやって来て尋ねるなら5秒~10秒を支配してしまうかもしれません。
これはボクの経験上の話ですが、文字の総量にしておおよそ同じ、セリフの数でも同じものを、まったく話し方や性格の違うキャラクターにアフレコする際、最大で1.5倍もの違いが出て来たことがあります。活発な女の子、すんなりした演技が多い人物では、のんびりした男の子、言いよどみや呟きが多い人物に比べて、原稿は同じ分量でも尺はまったく違ってきます。

ただし、上述の問題は、基本的には監督や演出さん、編集さん、そして演技指導さんや俳優さんの判断・裁量となる部分でもあります。それでも脚本家がきちんと自分の想定するドラマ像を持っていることは大切ですから、他人の責任なのだと丸投げしてしまってはいけませんよ(^^;

もうひとつ、「時間」を考える上で大切なことは、『映像の中には「現実時間」と「非現実時間」がある』ということです。
実は脚本においてはしばしば非現実的な時間の使い方をします。多くの映像脚本は時間を盗み(省略)、逆行し、そもそもが時間の感覚に対してファンタジーです。

ある人物が水中に転落したシーン、彼は水中の闇の恐怖を感じるにあたり、記憶の奥底に封印していた過去を思い出すとしましょう。この時、何の準備もなく転落した彼が水中で何秒ほど息が続くだろうか、現実に彼が救出されるまでのは何秒後でなければならないだろうか、ということは少しだけなら無視できます。なぜなら、そもそもフラッシュバックや回想の手法はすでに現実時間を飛躍したファンタジーだからです。
番組によっては、病院の集中治療室のベッド上にいる主人公のフラッシュバックから始まるかもしれません。この映画は2時間11分後に彼がベッド上で息を引き取る瞬間で幕を閉じるとします。しかし、この番組はベッド上のこの彼が始まりから2時間11分の間に思い起こした記憶である、とは誰も考えません。おおよそこのような時間の感覚は無視されても大丈夫です。これが「非現実時間」、もっと言えば時間を超越する映像の技です。

けれど、水中に転落した彼の場合、そこで実際に鮫と格闘するならば30秒がせいぜい、どう考えても1分程度が限度でしょう。このような時間感覚は大切にしなければなりません。こちらは「現実時間」なのですから、視聴者に「それはウソだろう」と白けさせてはいけないのです。
剣豪同士の一騎討ち、初太刀に始まって「打ち合うことすでに150合」だなんて言う場合に、途中を省略しなかったら、いったいどれほどの時間を費やしてしまうでしょうか! ―――だからこそ途中に情景等を効果的に挟みながら巧みに時間を盗む必要性が生じるのです。
「現実時間」を「非現実時間」の手法がサンドイッチしているのが実際の脚本なのです。事実、目の前の映像内容は、特殊なスローモーションや早送り映像を除いて、「現実時間」のものとして尺を圧迫します。この「現実時間」と「昨日の夕食時の会話を回想」のシーンの切り替わりには尺を必要としません。
余談ですが、画面にテロップで「3年後 シアトル」と表示しようと思ったら、3年待つ必要はありませんが、3秒は待つようにしましょう。(笑)

上記以外にも尺の考え方に影響を及ぼすものとして、オープニングのスタッフ表記(映画等)や、途中のCM(TVドラマ等)等もあります。視聴者にとっては現実の時間です。長いスタッフ表記を設け曖昧な映像で紡いで2分も3分も観客をじらすのだって、場合によってはちょっと面白いことですヨ♪ CM前後の映像の作り方についてはボクも専門でありませんので割愛しますが、視聴者がCM中の1分半~2分程度、対象のドラマから目を離しているという事実についてはきちんと向き合うべきでしょうネ。

今回は以上です。
小説やマンガにもページ数がありますが、ページの使い方によって、純粋にそこに書かれた分量とページ数は異なってきます。じゃあそれは単純にかさ増しをしたのか省略をしたのか、という議論はお粗末ですね。
脚本にも同じことが言えます。少ない原稿量で2時間半の映画を作れば脚本家は儲かるか? ―――そんなわけはありません。1時間ドラマに詰め込める精一杯のセリフを盛沢山に書いたら損か? ―――そんなこともありません。
ゲームシナリオの仕事を請け負っていると特に感じることですが、脚本の分量=上演時間ではないのですから、お客様にとって“長い”か“短い”かは、これを演出した上で実現する担当者さんがしっかりと尺の計算をしなければなりません。ただファイルの大小を見て「長過ぎて視聴者が飽きる」とは言えない。
(ただし、脚本の分量=手間ではあるので、なるほど最近の容量あたり原稿料という考え方には一理あるのかもしれませんね^^)
[PR]
by genmuki | 2008-06-18 23:24 | シナリオ小話

シナリオ小話 第38回 脚本の書き方(1)

『脚本の書き方 ~脚本とは何か~』
今回からは何回かシリーズで、こんなお題を立てて、脚本の作法として最も基本的な「書き方」について考えてみたいと思います。ここで言う「書き方」は「発想」や「書き進める順序」のような手法でなく、単に作法です。そして、主に脚本初心者の方を対象にしたいと思います。
しかし、「脚本はどのような書式に書くのか?」をここでは扱いません。この記事自体が横書きですし、そもそも脚本の書式を知りたければ教書の類を読んで下さい。たいていの脚本作法書で「脚本はどのように書くか」「脚本に書かなければいけない情報は何か」は丁寧に解説されています。

さて、初回のテーマは大要として「脚本に書いてはいけないこと」について考えてみましょう。

脚本には、大原則があります。それは「映像化できないものは書かない」ことです。脚本は映像の台本なのですから、あまりにも当たり前のことです。

たとえば小説では「健太郎は~~と思った」のように書くことができますが、脚本ではこう書けません。
・・・しかし、これは本当でしょうか? ―――このことは厳密には間違いです。実は書いてもいいのです。
「健太郎は桜子のことを思い浮かべた」と書かれた脚本は、本当に映像化できないのでしょうか? ―――いいえ、できます。彼女が画面に向かって微笑む映像を挟めばいいのです。もっと言えば、画面にマンガのような吹き出しを入れて彼女の顔を合成したっていい。
実は「彩は悲しんだ」とか「亮輔は淋しそうに主人公を見る」と書いたっていいんです。常識的に考えれば「彩なりに悲しむ演技をすればいいんだな」とか「このシーンで亮輔なりの淋しがり方をすればいいんだな」ということは分かるはずです。俳優さんや監督さんに伝わるならそれでいい。それが脚本の本義です。むしろ分かり易いならばその方がいいという場合だってあります。玄人を気取って「ジッと直視」と書いたって、それでは怒っているのか淋しがっているのか分かりません。「前後の関係でそれくらい読み取れ」というのもゴモットモな意見ですが、「淋しい」と書いた方がずいぶん親切なのだからそれでいいじゃないですか。

彩「だって」
 と言いかけ、思わず持ち上げた手を引っ込めて、ギュウと我が身を抱く。

脚本がこんなふうに俳優の演技に入り込んでもいいんです。逆に、こんなふうに書かずに、

彩、悲しげな様子。

こんなふうに書いておいて、あとは監督や演技指導さん、演出さんらに一任してしまってもいいのです。ズバリ、何でもいいんです!
そもそも脚本だって個人の創作なのですから、自分が書きたいように書けばよろしい。脚本家または各個の作品によって、演技や人の行動で物語をつむぐタイプのもの、長回しに長ゼリフのもの、マンガのように絵をつなぎ合わせるもの、画面のこちらに向かって語りかけるもの、どんなスタイルだってありなのです。
その中で基本書式を守ることは必要ですが、脚本家としてオリジナルのスタイル・スタンス・ポリシーというものまで型にはめて欲しくはないのです。

では、「書かないこと」や「書いてはいけないこと」はありえないんじゃないか? ―――ということにはなりません。
映像を見てわからないことは書いてはいけません。幾つかの例で見ますと、

AはBに封書を手渡す。実は裏金の帳簿が入っているのである。

この例では「実は」なんてことを書かれていますが、これはいけません。視聴者に見えているのはあくまでも「封書」であり、その中身はBさんが開いて見るまで分かりません。Bさんがそれを開くシーンがないなら、映像上では最初から最後まで「怪しい封書」でしかありえません。それが「怪しい封書」で十分なら「実は」以下は要らないでしょう。それが「裏金の帳簿」でなければならないなら、ちゃんとそれが視聴者に伝わる手段を用意しなければなりません。

C「はい、どうぞ」と微笑んで、DのタオルをEに手渡す。

似たような例です。Cさんは自分のタオルでなくDさんのタオルを相手に手渡しします。しかし、タオルだけを見てもそれが誰のものかは通常わかりませんから、やはりこれも別の切り口を探らねばなりません。CさんがDさんからタオルをふんだくってEさんに渡す、のようにする等です。

その他、「オイルの残り少ないライター」や「ガス欠しそうな軽自動車」も見た目ではわかりませんから、脚本では“別の書き方をしなければならない”。―――書いてはいけないわけではないが、脚本では別の切り口になりますよ、ということです。
人間関係でも、「母方の叔父」とか「祖母」という登場人物の名前を書くのには問題がありませんが、視聴者に主人公との関係が分かるような一定のシーンがなければ、いつまで経っても「オジサン」と「オバアチャン」です。後者に関して言えば、同じ家に住んでいれば、常識的にこれは祖母でしょう。近所の老人と同居する家族というのは非常識だからです。
また、「外国人嫌いの父親」とか「納豆が苦手が兄」なんていうのも、別の書き方になります。実際に外国人のことを悪く言わせるとか、食卓の納豆をズイとわきへ寄せる等です。

情景の描写でも、「冠雪した雄大な山々、コンコンと降り続く雪、窓の外にまるで絵画のように切り取られた冬の景色」と脚本に書いてはいけないのでしょうか? ―――書いても結構です。
ラストシーンを、「一陣の風、桜吹雪、よく晴れた午後、遠くの山の新緑がまぶしい、美里はまぶしそうに天を仰いだ」と書いてはいけないのでしょうか? いちいち柱を立ててシーン別に書かなければならないのでしょうか? ―――そんな面倒なことは思い切って省いてしまっても問題ありません。決してルール違反ではないのです。
何度も言いますが、脚本は映像の台本なのですから、仲間の制作者に生き生きと伝わることの方が大事です。

と、今回のシリーズはこのような調子で行ってみたいと思います♪

そもそも、脚本の書式は日本と外国で異なります。同じ日本でも時代時代によって異なります。決して厳しいルールによって定められている世界ではありませんし、現場に合わせて変化し続けるものです。
たとえて言えば、サッカーではボールに手を触れてはいけないというルールはありますが、爪先やや内側半径3センチの部分でボールに触れねばならないなんてルールはありません。つまり、脚本にも守るべき最低限のルール(書式)はあるけれど、よくよく考えたらおおよその表現は自由なのです。
世の中には脚本の書面を見ただけで「素人丸出しだ」などと批評するお人がいますが、こんなのは本末転倒です。脚本のスタイルなどというものは自由であって、そもそも脚本というものは万人向けの作品ではありません。脚本は誰かが演じ誰かが撮り誰かがつないで「映像」というものになって、初めて万人の目に触れる作品となるわけです。逆を言えば「悲しい」と書かれているのを見て「脚本にこんなふうに書いてどういうつもりなんだ?」と言う脚本家や監督がいれば、この人は常識的な人間ではないのだと思えばよろしい。「悲しい」という言葉は「悲しい」に他ならない、その日本語が理解できないのだから。

声を大にして言いますが、最初のうちは「悲しんだ」とか「淋しい」とか「空腹だ」と平気で書いて下さい。仲間に見せて「このシーンの内容、想像できる?」と質問してみて下さい。それで伝わっているならOKです。脚本とはそういうものなのです。

(ぴんぽんぱんぽーん)
かなり乱暴な内容となっておりますが、今回シリーズはあくまでも脚本というものの考え方を端的に示す目的で書いております。
ご覧の皆さんの脚本に実際に求められる書式や書き方に関しては、番組制作会社、劇団の仲間、あるいは現場の同僚らとよく話し合われて下さい^^
(以上、業務連絡でした。ぴんぽんぱんぽーん)
[PR]
by genmuki | 2008-06-12 00:53 | シナリオ小話

シナリオ小話 第37回 シャレード(5)

「シャレード」に関する解説と考察も第5回目となりましたので、今回を最後にしたいと思います。
そこで今回は、いつものシナリオ小話よりは踏み込んで実践的に、どうしたら「シャレード」を用いることができるか、ボク自身の経験を基に覚え書きをしておきたいと思います。簡単な例も挙げておきます。

まず第一に、脚本を書いていますと、「尺」の制限に引っ掛かることがあります。「尺」とは上映時間のことであって、脚本家の仲間内では『原稿用紙○○枚』といった分量のことです。おおやぎ自身は1~2割は多く書く傾向にあるので、後で脚本を削ることになります。
(ここでは、“脚本家の書く原稿を結果として何分の映像に仕立てることができるか”といった演出家さんや監督さんの技法は扱わないことにします)
「尺」つまり原稿の分量を削るには、セリフの削除が最も効率的です。「セリフ」は俳優が発する言葉ですので、常識的に考えて、文字数の分だけ時間を要します。だからこそ、ひとつひとつのセリフをより簡潔にする努力も必要なのですが、同時に必要になるのが、セリフを「シャレード」に置き換えることです。ここで言う「シャレード」とは、「情景」でも「小物」でも「演技」でもよい。
とにかく、幾つかの往復会話/セリフで説明しているが、実際にはもっとこの心情や情報を端的に示す内容は他にないのか? ―――そのように考える時、「シャレード」の必要性が自ずと浮かび上がってきます。
・・・逆を言えば、「尺」ということを考えない時には、ついついダラダラと台詞劇を仕立ててしまう可能性があるということですから、ひとつのきっかけ、ないしは基準になると思って下さい。

例)

A「君はそれほどの覚悟なのかねッ?」
B「そのつもりでおります」
A「しかしそうは言っても、今回の件は難しいよ、あまりにも」
B「それはもう、このプロジェクトに関わった時からわかっています」
A「だからって、無謀だとは思わないかッ?」
B「覚悟は決めています。だから私はヤリます!」



A、無言で机の上に辞表を叩き付ける。
B「・・・と、止めることはできないと言うんだね」

解説)
辞表という小道具、それを相手に見せ付けるように叩き付ける演技=覚悟、とした場合、実際に会話は必要でなくなる可能性が高いですね。

第二に、これもまた執筆後の推敲/添削の段階で生じる手続きですが、自分の書いた脚本が実際に映像化された結果を思った時、『カメラが同じものを長回しで映している時間が長いのではないか?』と感じる部分が出てくることがあります。台詞劇は言うに及ばず、一定の場面にカメラを固定して意味や情報の似通ったものばかりをずっと視聴者に見せてしまっているのではないか、と思える箇所が出てきます。
その時、前述のようにスマートにして分量を削るという面からもそうですが、より画面に変化を持たせる工夫はないのかと考えるようにすると、(少なくともボクの場合は)改善策として「シャレード」による表現への置き換えを思い付くことが多いのです。
そもそも、画像/映像が退屈なのは同じものを映しているからです。同じ人物、同じ風景、同じ場面―――それらに変化を持たせようと思う時、同時に、その変化によってドラマがアッチへコッチへ泳いでは意味がないのですから、表現の仕方について考える必要性が出てきます。
そういった時に「シャレード」による表現は有効だったりするのです。

例)

A「あなた様はそれでも行かれるおつもりなのですか?」
B、無言、手にした刀をギュウと握り締める。
A「・・・わたくしがお止めすることも、もうかなわないのですね?」
 と、Bの肩に手を伸ばす。
(A、肩をそらせてAの手を避ける)A、無言、直立のまま。
B「やはり、そうなのですね・・・」
 と、差し出した手を引っ込める。
A「・・・・・・」
B「・・・やはり行かれると、そうおっしゃいますのね」



桃の花の咲く樹の下でAがBに背中を見せている。
Bの眼前に桃の花が落ちる、Bは思わず手を差し出すが途中で引っ込め、Aにも触れず、桃の花はBの前をするりと零れて足下の小川へ落ちる。
B「ああ・・・」
 と、瀬流に流れる桃の花を見つめる。

解説)
改稿前のAとBのやり取りにも演技や無言が盛り込まれていますが、二人のやり取りがやや長尺。これを1~2カットのシーンで完結するために、小川に落ちて流れる花でAの出立を代用してみます。Bはそれを止めることはできないという表現です。

第三に、台詞劇として会話を仕立てたところ、読み返してみて逆にその会話の意味合いが複数通りあるかもしれないと思う場合、あるいは単純に、視聴者に伝わりにくいかもしれないと思う場合、「シャレード」による表現に置き換えることがあります。
しばしばセリフはウソっぽく(「セリフのウソ」参照)もなりますし、2時間前後の映画になると最初の方の出来事を視聴者が忘れている可能性だってあります。途中でセーブしておいて再開されているかもしれないゲームのシナリオなどではなおさらこの危険性があります。
逆にこの誤解の用法を用いて視聴者をミスリードすることもありますが、これはちょっとした変化球でしょう。ですから、言葉だけで語られている情報を、逆に「シャレード」に置き換えてやった方が伝わりやすい場面も多々生じてくるのです。―――つまりは、分かり易くするための「シャレード」ですネ。

例)

A「例のファイルですがね」
B「例の・・・? と言えば、この前の事件の?」
A「そう、あの事件の記録です」
B「あの事件も、確かに完了しているはずですが?」
A「・・・それが今回の事件にも関係するとすればどうでしょう?」



A「例の事件、あれが今回の事件にも関係するとすればどうでしょう?」
B「今回の事件に、関係ですか・・・?」
 と、手にしたファイルに目を落とす。

解説)
この会話の時点で『例のファイル』や『あの事件』が複数存在しているドラマの場合、セリフによる説明では視聴者がⅠとⅡのどちらを指して会話しているのかわからない場合があります。脚本家は自分の中で勝手に『あの事件』が「Ⅰ」を指していると思って進めていても、視聴者には(前後の関係を推測しても)区別が付かないかもしれないと思うことが肝要です。こういった場合、Aのセリフの指し示すものはBが今まさに手にしているそのファイルの内容なのだ、といったことを画面で示した方が伝わりやすい場合があります。 (刑事ドラマなどで、事件名を書いたファイル等がよく映りますよね^^)
余談ですが、「ⅠかⅡか、どちらの事件について言っているのですか?」などとセリフで補うのは、あまりにもスマートではありませんね。(^^;

・・・以上のように、最も容易に思い付く範囲で、ボク自身が『この箇所はシャレードによる表現に代用しよう』と考えついて自分自身で添削/修正するパターンを3つほど挙げました。
まとめると―――

・セリフのやり取りで分量が多くなってしまっている部分
・カメラ/シーン内容が固定的になってしまいがちな部分
・セリフによる説明では逆に誤解を招きかけない部分

以上のような3つの箇所で、積極的に「シャレード」を使っていく必要性を感じるということです。
他にも色々な箇所で「シャレード」への置き換えを要求される体験をするでしょうし、そもそも「シャレード」はもっと厳密に、“効果的であり感動的である”との理由から模索されねばなりません。
しかし、自分が書き上げた脚本を(ある意味で)やむなく推敲/修正する段階においても、「シャレード」への置き換え/代用の必要性は生じるものなのだと、そのように気楽に考えて頂きたいので、今回はこのような切り口にしてみました。(苦笑)

「シャレード」編を締めくくる意味では何度も言いますが、何でもかんでもセリフで表現していてはいけません。
『セリフに代わって表現する』=「シャレード」こそが、情緒豊かで、なおかつ分かりやすい現代映像脚本の要なのです♪
[PR]
by genmuki | 2008-06-05 17:10 | シナリオ小話