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シナリオ小話 第44回 シーンの長さと配分

今回は「シーンの長さ」と「その配分」について考えてみたいと思います。
映像は時間なのですから、各シーンには時間(尺)という意味で「長さ」があります。「シーン」とは「場面」のことで、いちいちのカメラの切り替わり(フレーム)を言うのではなく、現在の劇が展開している場所立てのことを言います。しばしば脚本では「柱」と呼んで、その劇がどこで展開しているのかを区別してひとまとめにしておきますが、たとえば「神社の入り口」「堂の前」「庭」「社務所前」といった風に神社の入り口から中にかけて、神主さんを尋ねた刑事さんが話しながら歩くシーンがあったとすれば、これはひとつの「神社のシーン」と捉えて問題がありません。

こういうシーンを様々に組み合わせて人物の移動を追ったり、様々な人物の横顔を描写していくのが映像脚本であるわけですが、まず大原則として、長いシーンは重要なシーンだということです。これが今回の結論です。
2時間の映画の中で、30分間にもわたって描写される激しい戦場のシーンや、15分間を超える法廷での論争は、この映画の最大の見所となります。ハリウッドの刑事アクション映画なんかを見ると、銃撃を伴うアクションシーンは物語の中で何ヵ所かあったとしても、最後の決戦に最も時間を割いていることが分かります。最も長いシーン=視聴者の映像体験を最も大きく占有することなので、これが王道なのです。
恋愛物のテレビドラマを観ていても、主人公とヒロインが抱き締め合って再会するようなシーンにはじっくりと時間を割いています。スポーツ物の映画でも、現実には3ヶ月も半年も前から必死の練習を重ねてようやく最後の試合に臨むわけですが、2時間で割り振るとすれば、3ヶ月間の血の滲むような練習の日々は1時間40分で描き、45分しかない試合のシーンにフィルム上の20分間を充てます。言うまでもなく、ここが最重要のシーン、クライマックスだからです。

このことはあまりに当たり前のように思いますが、以前から書いている通り、初心者とされる方々の脚本を見ていると、意外にこのシーンの長さの比重を間違っている場合が多いのです。
一例を挙げますと、努力と鍛錬を惜しまない正義のヒーローがやがて来るであろうライバル悪役との対決に向けて様々に葛藤し成長していくドラマがあったとします。彼の努力の中には恋人との出会いや悲しい別れもあります。友人との口論や決別もあります。それらを乗り越えて、主人公は避けられない対決の日を迎えます。
―――が。最後の対決のシーンはセリフもなく、映像の貼り合わせですんなりと終わってしまいます。殴って殴られ、蹴って蹴られて、しばらくすると勝利してしまいます。
「どうしてこんなに最後の戦いが淡白なのか」と問い「最重要のシーンにはしっかりと時間を割いて濃密な映像を作らねばダメですよ」と助言すると、作者の若い女性は「主人公の成長や周囲の人間関係を描きたかったから」であり、「この映画においてライバルとのアクションシーンは重要でない」と言うのです。
・・・なるほど、気持ちは分かります。分かりますが、それならば思い切って、いざこれから決戦に向かう主人公の背中を映して終わっておくべきかもしれません。―――それならそれで「山場」がありませんから悩んでしまいますが。少なくともごく一般的な視聴者がこのようなトリッキーな時間の使い方に満足してくれる可能性はきわめて低いのです。

また違う例を挙げますと、刑事ドラマを描いて来られた若い学生さんの脚本では、犯人を逮捕するシーンがたった数秒しかなかったのです。犯人は観念しており特に抵抗もしません。主人公の刑事は色々なトリックを暴きトラブルをかいくぐって真犯人にたどり着くわけですが、途中途中のトリックを暴くシーンではそれぞれにかなりの時間を費やしています。
脚本の束を手に取って読んでいる立場としては「まだ半分くらいか」と分かるのと同様に、視聴者だってそれが120分の映画なのか150分の映画なのか分かって観ているのですから同じことが分かります。それなのに、途中40分目くらいからの10分間、主人公の刑事は関係者を集めて名探偵ホームズよろしくトリックの謎解きを披露してみたりします。
・・・こんなことを繰り返すのに、真犯人の逮捕は数秒なのです。これは明らかに「シーンの長さ」の配分を間違っていると言わざるを得ません。

これらは極端な例かもしれませんが、初心者脚本に驚くほど多い病癖なのです。
この「配分」は漫画などの構成でも重要視される要素です。漫画では「ページ数」として、やはり重要なシーンにはしっかりと枚数を割くように編集さんが指導されるはずです。逆に比較的重要でなくクライマックスでもない部分に紙面を割きすぎると後が詰まっていけません。
この配分のミスを避けるために「箱書き」というものを作ります。きちんと箱書きを用いて構成しておれば、自分が予定しているクライマックスがそれだけの時間を占有する、つまり「シーンとしての長さ」が十分にある内容になっているかが分かります。頭から書きたいことをダダーーと書いて来た場合にも、改めてそれらを箱書き風に整理してみて、余分な部分を削り足りない部分を補うような校正が必須です。

今回も総論となってしまいましたが、意味的に重要なシーンというものは前後の関係だけで決まるものではない、ということに注意して下さい。物理的にその「シーンの長さ」がどれだけのものかということが、視聴者にとっては非常に重要なのです。
時間=フィルムを書く脚本においては、シーンの長さ=重要度と置き換えても支障がありません。

(追記)
このことはあくまでも総論であり、一種の王道、大原則に過ぎません。やがて慣れてきたら特異な時間の使い方を試してみてもよいのです。
意図的に事件/シーン毎の重要度を設定しないようにする記録映画や環境映像と呼ばれる分野では、わざと各シーンの長さを揃えているものもあります。(しかしこのこと自体が「シーンの長さ」=「重要度」であることの証左です)
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by genmuki | 2008-07-23 18:27 | シナリオ小話

シナリオ小話 第43回 少ないセリフ

今回は「少ないセリフ」と題して、具体的な技法と言うよりは、ちょっとした感慨と考え方を示してみたいと思います。

かつて、日本の映画が欧米でも評価された時代がありましたが、このところ、邦画が海外で評価される機会が減少したように思われます。比して、相変わらずアメリカ映画は強いですし、ヨーロッパへ行くと映画大国インド等の評価も相変わらず高いようです。(「ジャパニメーション」として評価の高い日本のアニメや、ホラーを中心としたジャパン演出には、やはり高い評価がなされているでしょうが)

ふと、アカデミー賞や海外の映画祭で評価される映画ってどんなものなんだろう?と思ってDVDをレンタルして視聴しておりますと、ボクは脚本家ですから主に脚本に関することに気付いたわけですが、セリフの構成に大きな違いがあることに気付かされました。
結論から言いますと、セリフの全体量が意外に少ないのです。また、いわゆる当たり前の「受け答え」がほとんどない。脚本家としての視点で行くと、削ぎ取って削ぎ取ってようやく残したのがこの言葉だけだった、というレベルまで洗練されているということです。これはなかなかに重要なことです。つまり、現在の日本の映像脚本はとかく喋りすぎなのです。当たり前の受け答えをセリフで行い、いちいちの問いにいちいちの返答が繰り返されています。
もうひとつ感じたことは、セリフが少ないのは、重ねられるセリフが「飛躍」していることなのです。1234と喋るべきことが、124であったり、135であったりして、少ないセリフであるにも関わらずドラマの密度が非常に濃い。

なるほど、新井一先生が著書の中で「セリフの飛躍」を書けとおっしゃっていますが、海外の映像ではそれが今でも伝統芸なのです。比して日本の映像作品は、良くも悪くも、大変に親切な作りになっています。“親切な作り”は、ややもすれば、安直であって単純です。誰にも理解できるがゆえに、深みに欠けます。我々商業作家の場合はクライアントさんや監督のご意向があっての執筆作業なので、おおよそその方針に従わねばなりませんが、「この親切なスタイルのままではいけない!」と強く感じさせられる今日この頃です。

A.「どこへ行ってたんだい?」
B.「コンビニ」
A.「またコンビニかね」
B.「お節介はゴメンだよ」

こんなセリフがあったとします。いわゆる英会話セリフではないにしても、Bさんのセリフは全て直前のAさんのセリフを受けています。

A.「すっかり冷めちまったよ」
B.「ちょっとコンビニだって」
A.「どんなに可愛い店員だってあんたのポタージュを―――」
B.「お節介はゴメンだよ」

こんな感じだと、いかにも外国映画の和訳っぽいですね。(笑)
この4つのセリフの意味を理解するのには、ちょっとした予備知識が必要かもしれませんが、先の例に比べると妙にリアリティがあって生々しいものです。
先の4つのセリフには「お節介」程度のニュアンスしか感じ取れませんが、後の4つのセリフだと「一人暮らし」「離れて暮らす母」「手料理」「好物」「婚期」みたいなニュアンスまで感じ取ることができるかもしれません。いかに少ないセリフで多くの情報や情緒を盛り込むかという課題が明確に書き手の中にあるのかもしれません。

今回はあまり具体的な例を挙げて解説することはしませんが、日本の作品でも特に「源氏物語」や「平家物語」のような古典の物語文章の表現を見ますと、セリフの受け答えがほとんどないことに気付かされます。黒澤作品の一部では、下手をすると一度の視聴では何を喋っているのかすら分からない部分すらあります。手塚の漫画でも、時折、この受け答えは飛んでるなァと感じさせられる部分があります。これらの作品に共通しているのは、展開が常に「飛躍」していることです。小学校時代なんかに階段を昇る時によくやった「一段飛ばし」というやつです。

こういうことを繰り返す時、セリフには一種独特のクセが生じます。こういう感覚を、日本では「粋」だとか「洒落」が利いていると言います。フランス語でエスプリだなんて言われる感覚も、どこか人を小馬鹿にした空気があります。つまり、丁寧で至極当然であることの反対の意味であり、ちょっと斜から見た物の述べ様であり、ここにセリフの「飛躍」を生み出します。

落語などで「そのココロは?」というのがありますが、本当にすぐれた小咄では「そのココロ」を明かさないでも笑えるものだそうです。しかし、これには視聴者の理解力が求められます。
比して、多くのセリフを費やし、なおかつ、それらを丁寧に並べて喋らせることは、確かに親切です。しかし、こうするとセリフ劇のテンポは減速し、同じ2時間の映像の中身が薄いことになってしまいます。

―――いかに少ないセリフで「飛躍」を用いて濃密な映像を作るかということは、これからの大きな課題であるように思います。
セリフを洗練させ、その数を抑えることは、映像の密度を増すと共に、映像作品が映像作品であるがゆえの独自の魅力を高めるように思われます。
脚本家はしばしば「これで通じるのか」「この意味を汲み取ってもらえるのか」という不安と対峙します。セリフを少なくして相互の言葉の間に意味合いの「飛躍」を生み出していくことは、技術的に難しいことであると言うよりは、心情的に不安で困難なことなのです。
脚本家はますます今後はこのことに向き合わなければならないでしょう^^
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by genmuki | 2008-07-17 00:11 | シナリオ小話

シナリオ小話 第42回 ちょい

今日は作劇の上で欠かせない「ちょい」の演技や「ちょい」の役について考えてみたいと思います。
今回も結論から書いておきますと、初心者の脚本ほど、作劇に余裕がなく幅がありません。余裕がない最大の要因は、主役とそれを取り巻く準主役たちの行動を追うのに精一杯になっていて、その他の無駄がほとんどないことにありそうです。表現の幅の狭さもこのことと関連し、あらゆる表現を主役たちのセリフや演技で解説/描写しようとすることがいけません。
そこで、脚本技法の話では決して本筋に出て来ない「ちょい」の表現について考えてみましょう。

しばしば「ちょい役」という言葉を聞きます。これは「ちょいと出てくるだけ」の役柄のことです。「端役」とも言いますが、脚本家としてはこういう人物を出せば効果的だからこそ生み出す役柄なのであって、決して不要のものではありません。

―――主人公、朝のオフィスビルのロビーを颯爽と通過する。
男性社員A「部長、おはようございます」
女性社員A「おはようございます」
男性社員B「お先にどうぞ!」
 と、エレベーターの前で社員たちが緊張した面持ちで挨拶。
掃除のオバさん「あら、タケちゃん。おはよーさん」
 と、親しげに笑って挨拶。
主人公「よっ! オバちゃんも朝から精が出るね!」
 と、軽く手を振ってエレベーターへ消える。

サラリーマン物のドラマなんかでしばしば見かけるシーンです。社員たちの表情や態度から、主人公は尊敬され畏れられるデキる上司だということが伺い知れますが、同時にビル清掃の中年女性がニヤリと笑って親しげに挨拶するのを見ると、視聴者にすれば、「真面目でデキる人物であると同時に、明るく気さくなタイプなのだな」ということになる。
こういうのを「ちょい役」と言います。エレベーター前にいる3人の社員も「ちょい役」です。それぞれに立場の違う「ちょい役」たちの言動から、主人公がどのような人物であるかを1シーンで描写できます。
・・・こういう1シーンを描くことが脚本では意外と重要な技術になります。主役級の人物のやり取りで「おまえは仕事もデキる上に、部下どころか掃除のオバさんにまで愛されて。羨ましいよ」だなんてセリフをやりとりする必要などありません。

また、ちょうど先日、街中に出かけた時に行き交う人たちをちらりと観察した時、おおよそ皆さんは「ちょい」の芝居に相当する様々な所作を繰り返していることに気付かされました。
男女が腕組みをして歩いているにしても、たとえば女性が男の腕に頬をすり寄せるようにして会話しているのを見ると、「あのカップルは仲良しだな」とか「女性が甘えて何かおねだりしているのかな」と思うわけです。同じように腕組みしているカップでも、男性は街のビルを見上げ、女性は端のショーウィンドウを覗きながら歩いている、お互いに積極的な会話はないといった場合、「ご夫婦なのかな」「交際してから幾分か時間が経っていて2人の雰囲気は落ち着いているんだな」と感じる。
ちょっとした所作の違いで、(それが正解かどうかはさておき、視聴者としてのボクには)それぞれのカップルの状況というものが伺い知れるわけです。

後者の「ちょいの演技」に関しては今までも何度か『さりげない所作を利用する』として繰り返してきましたが、こういった小さな繰り返しが脚本では非常に重要です。
ややもすれば脚本家はドラマティックなセリフの応酬や派手なアクション、ショッキングな情景描写に心を砕きがちですが、ボクが考える成熟した脚本とは、こういった「ちょい」がきちんと計算され生き生きと映像化されるものです。なぜなら、その一幕で視聴者をドカーンと感動させる名シーンだなんてものは2年や3年に1つを思い付くか思い付かないかといった程度のものですが、毎日執筆していく脚本の大部分はこのように小さな描写の繰り返しだからです。これは格闘技を身に付けるのと同じ。基礎の小技を延々と修練するものであり、一足飛びに大技を狙ってはいけないのです。

繰り返しになりますが、初心者の脚本ほど、いかにも「ちょい」の小さな演技や所作、人物の登場やそのやり取りがありません。そのため作劇に余裕がなく表現の幅というものがありません。
もっとも、予算や俳優の数が限られてくるような場合の脚本、たとえば仲間内で映画作りをする場合や小さな劇団が上演する場合、なかなか「ちょい役」を多用することができません。―――この場合はどうするか?
このような場合には、準主役級の人物たちを上手に使って「ちょい役」をさせます。ついつい準主役級の人物を登場させるとがっつりと会話をさせがちですが、それをグッとこらえ、登場時間を極端に短くする、いわゆる「顔出し」程度の出入りを巧みに使うことです。

A「さて、と!」
 と、腕時計を確認して部屋を出ようとする。
 そこへ妹がドアを開いて顔を出す。
Aの妹「あ、そうそう。ハンカチ忘れずにね」
 とだけ言ってさっさと退散。
A「俺はガキかよ・・・」
 と言いつつ、キャビネットからハンカチを取り出しポケットにしまって部屋を出る。

こんな程度のどーでもいい演技と顔出しを書いておくと(この場合はコメディタッチですが)作劇が生き生きしてきます。主人公のAさんはこれからバイトの面接かもしれません。妹にハンカチのことを心配されるなんて、いかにも頼りない兄です。子供扱いするなと愚痴りながらも、妹に指摘された通りハンカチは持っていなかった。それを素直に持ち直して出かけるなんて、根は正直で真面目なのかもしれません。
このような1シーンの回り道は、たくさんの登場人物がなくても十分に用意できます。
「ちょい」の役や「ちょい」の演技、つまりはいかにも「ちょいとした」シーンを上手に使いたいものですね。
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by genmuki | 2008-07-09 20:43 | シナリオ小話

最近なにをしているかといいますと・・・

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すでに各メーカーさんや番組からの発表もありますので、それぞれについてご存じの方もあるかと思いますが、サークル「幻夢騎」のへっぽこ代表・おおやぎは、基本的に商業シナリオライターですので、美少女ゲーム、コンシューマのRPGや、テレビアニメ、ごく一部の映画情報誌等に脚本や記事を書いている毎日です。同時に(主に広告系DTP)デザイナーで、新聞広告なんかを担当していたりします。

・・・だからなに?

えっと、えっと、えっと・・・030.gif

新作のゲーム作るってたいへんだなァ!! ってことですよね(笑)
『貧乏暇なし』の言葉通り、好きな作品作りだけでは生きて行かれません><
どんなライティング&デザインも好きでさせて頂いている仕事には違いないのですが、やはりどんな仕事にも趣味の同人ほどの自由度というものはありません。
アルバイトでもサラリーマンでも自営業でも、あるいはまだ学生さんでも―――どんな方でも、それぞれの状況に応じて要求される仕事の内容というものはあるものでして、それが気に入るとか気に入らないとか・自分の思い通りになるとかならないとか、そういうのとは関係なく―――仕事は仕事、けれど手を抜いてはいけないし、『与えられた環境の中で精一杯』がいつでも合言葉ですよね★

つまり。
盛大な新作遅延の言い訳と言いましょうか、それでも何もしていないわけじゃないんですよという生存の確認「忘れないで」の悲鳴といいましょうか(滝汗)
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by genmuki | 2008-07-07 00:35 | 幻夢騎

シナリオ小話 第41回 脚本の書き方(4)

「脚本の書き方」と題して、いくぶん端的な意見を折り混ぜながら、『そもそも脚本とはどういうものなのか』といったことについて考察してきたシリーズは、今回で一旦終了とします。
最終回の今回は、やや実践的な視点から、脚本を書く際の段階的な手順について考えてみたいと思います。

今回も結論から先に言っておきます。「イメージボードを作りなさい」ということです。
これがボクの提言できる「脚本の書き方」の手順についての、最初のアドバイスになります。

しばしば物語作りの作法書には「箱書き」なる言葉が出てきます。「箱書き」は他にも「プロット」や「シノプシス」「構想」「構成」等のように言われますが、ここでは個々の厳格な定義については扱いません。
そもそも「箱書き」や「プロット」といったものは、完成した脚本に対して「下書き」であったり「構想段階のノート」といった意味合いであり、多くの作法書では、プロットを組み、それをより具体的な箱書きへ落とし込んでからバランス等を調整して脚本を書き出すのが望ましい、という手順を紹介しているように思われます。このことは文章作りに関する一般論ですから、小説や論説文にも当てはまるであろうことです。

しかし、そもそも脚本とは何かということに経験的に精通している方ならいざ知らず、脚本初心者にとって、テーマだとかプロットだとか箱書きだとかいったことは、実は大変に理解しづらい。道の先がまったく見えないのに手順や経路を説明されても、不安になるばかりでしょう。
ボク自身も学校の講師を務めた際には、ひとつの様式として・・・

1.テーマ設定(何を述べたいかの明確化)
2.モチーフ選定(どのような事件を通じて述べるかの題材探し)
3.骨子の設計(4行プロット:起承転結の書き出し)
4.骨子の設計2(20行プロット:事件の流れの創作)
5.大箱書き(4行プロットに合わせて事件の配置)
6.小箱書き(起承転結に合わせて作劇分量の調整)
7.実執筆
8.校正

―――このような手順を教えてきました。
けれど、この手順に従ったからといって「脚本とは何か」が理解されるわけでもなく、逆に、完成形の脚本の姿を知らない者にとっては、それぞれの手順が何の目的のために存在するのかすら理解できないのではないのか? という疑問にぶつかったわけです。

そこで、今回あえて拙連載をご覧の皆さんに提言したいのは、「まず書いてみる」ことです。
前後関係をはっきりさせたり、論理的なつながりを意識・調整する前に、まずは具体的にシーンやドラマを「書いてみる」!

そもそも視聴者にとっての映像とは、連続する映像体験に他なりません。脚本が映像化されて視聴者の目に届く時、視聴者はその制作過程を知るすべもありませんし、脚本家が想定した論理も説明手順もすっとばし、眼前の映像世界を体験しているに過ぎません。
すると、脚本家が最終的な視聴者に“つながる”瞬間とは、登場人物のセリフそのものであり、画面に映す情景そのものなのです。
この意味から、脚本家は『自分が視聴者に見せたい・聞かせたいもの』を書くべきであって、その他の仕事などはありえません。
であれば、脚本家が脚本を書きたいと思った時、視聴者に見せたいものを書き殴ることから始めればよろしい。「こんなシーンがあれば楽しかろう」「こんな状況でこんなセリフが飛び出せば美しかろう」と思うものを書く。
あるシーンの会話を切り取っても良いし、映画の上でこれは出したいと思う情景について陳述しても良い。
・・・とにかく「書いてみる」ことなのです!
(もちろん脚本形式で書きましょう。小説ではないのです)

最初にこのような作業から始めることを、ほとんどの脚本作法書は紹介していません。
しかし、主に監督や美術さんが作成する「イメージボード」と呼ばれるものがあります。文字通り、紙のボード(板)やスケッチブックに、無作為に取り出されたシーンを発想するままに描くといった方法論です。美術畑の方々はしばしばこのような発想方法を採ります。しかし、ボクの経験上、脚本に携わる方々は感情的ではなく理知的ですし、多くの脚本家は理論家です。その結果、脚本を書くということは何か難しい論文を組み立てるに似た困難さを匂わせがちです。
―――ですから、今回はあえて情緒的かつ感情的な手法を提案します。

さて、脚本を発想するにあたって重要なことがいくつかあります。

まず、出来上がったものが映像となるという事実です。
文字で「利潤追求の企業姿勢はイカン」だとか「地球温暖化に警鐘を鳴らす」だとか「愛は何より貴い」と書いても意味がありません。脚本家にとって最大の関心事は、「こんな映像があればきっとこんな心情になってくれるであろう」「こういうドラマを描けば必ずこんな思いが通じるであろう」という『具体的な事象』でなければならないのです。
このことは小説や論説文と異なる最大の要素で、脚本家自らが結論を述べるわけにいかない映像脚本の最大の条件、時に足枷となります。
脚本家が描き出すのはいかなる場合にも『具体的な事象』であり、そこには「自分の言葉」はないのです。

次に時間です。映像という時間を扱う(2時間の映画を途中からは見ない)のですから、最初から最後にかけてひとつの流れを作らねばなりません。辞書を編纂するなら個々の記述は独立しているべきですが、ひとつの脚本に与えられる時間はひとつですから、前から後に向かってひとつの流れでなければなりません。逆を言えば、視聴者はひとつの流れであるとしか体験することができません。
時間の流れがあるということは、描いたものが順々になるということです。辞書の編纂とは違います。バラバラの事件を描写したとしても、A→Bの順番で見た時と、B→Aの順番で見た時では、視聴者にとっては意味が変わってきます。ですから、“完全に別個のもの”をひとつの映像脚本の中に盛り込むことは原則としてできかねます。

この2つの大前提を踏まえた上で、とにかく「書いてみる」ことをしてみて下さい。
こうして書かれたシーンの断片―――言葉、会話、情景、事件―――は、すでにひとつの物語を成すはずです。むしろ余計なものをはぎとった、脚本家にとってはその作品のエッセンスであると言えるでしょう。
こうなると、あとはそれぞれのエッセンスの前後により脚本として現実的な技法を駆使して効果的にする、という努力が待っています。

最低限の脚本としての大前提は以上の通りですから、まずは「書いてみる」。脚本としてのシーンやドラマを頭の中から引き出して来る。
もし脚本の作法書などを読んで学習しながらまだ脚本が書き出せていないなら(特に書き込みノート様式の技法書で最初に「テーマや葛藤の設定」なんて項目があってそこでつまずいているとしたら)、とにかく頭の中にある“その情景”や“その言葉”“その行動”“そのセリフ”を「書いてみる」ことをお勧めします。

最後に、繰り返しになりますが、脚本とは人物の動作とセリフと情景を羅列した台本に過ぎません。最終的にそれは人間の営みそのものや言葉そのもの、あるいは情景そのものでなければならないのです。ですから、何よりもまずそれを「書いてみる」こと。

・・・あなたが人間の一定の所作や言葉に感動しているなら、それをそのまま脚本に書き誰かが演じて映像となれば、やはり誰かが感動するはずなのです。脚本の意味合いはこれ以上でもこれ以下でもありません。技法や構成だなんてものは、この前後に付随するものに過ぎないのです。
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by genmuki | 2008-07-03 01:50 | シナリオ小話