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シナリオ小話 第48回 技法の優越

今回は「技法の優越」と題して、これまた随想的に書いてみたいと思います。
というのも、たまさか長い間消息をとっていなかった後輩から連絡があり(今の彼は仲間たちと映画を撮っているそうですが)、『このところはどんな物語が受けるのか大いに悩んでいる』と聞いたので、脚本家はストーリーで悩む前に技法で悩みたまえと知ったような口をきいたものの、自身、ハッとさせられたことに起こります。

今度も結論から言います。視聴者を喜ばせる映像作品作りに、ストーリーは二の次です。

そもそもボクは、昨今とみに「テーマ」だとか「ストーリー」だとかいった言葉が流行しすぎているのではないかと思います。比して、「技法」だとか「テクニック」だとかいった言葉には、今だに『小手先の』『その場しのぎの』『見せかけの』といった侮蔑の感が付きまといますね。

しかし、よく考えてみて下さい。おおよその娯楽映像は、主題を滔々と説く論説でもなければ、随筆でも演説でもないのです。それは映像体験であり、誰もが求める快楽のひとときなのです。
事実、まったくの脚本・映像素人の友人たちに面白かった映画を挙げさせると、「ストーリーは平凡だったけど」とか「ストーリーは普通だけど」と言った言葉が聞かれます。そんな意見を聞いていると「ストーリーは平凡な方が良いのか?」と勘繰りたくさえなります。

映像脚本を書く時に最も必要とされるのは、主題や作者の主張ではありません。必要なのは、舞踊にすれば肉体で表現される美しさであり、絵画にすれば筆致の卓越であり、音楽にすればその旋律が人間の感情の琴線に触れるかどうかなのです。
睡蓮の連作を描いたモネが、睡蓮を描くことによって自然の美を礼賛したことはなるほど分かりますが、では彼がそこに人間のあるべき姿や自然と人間の共生なんて主張を第一義に置いて制作したとは考えられません。ごくごく純粋に、美しいと思ったものをいかに美しく描き出すかという「技法」を自らの制作テーマにしていたように思われます。

ストーリーはチープでも、大ヒットした作品は山ほどあります。ボクは毎度「ダイハード」や「エイリアン」を挙げるのですが、これらの世界的なヒット作品に、それほど複雑で巧みなストーリーや重厚なテーマがあるとは到底思えません。しかし、脚本上のテンポは非常に良いし、何度も何度も観て研究するに値する映画だと思っています。
しばしば言われますが、文学賞や映画賞をとった作品は一般視聴者にはわりとツマらない、という事実があります。20世紀後半から21世紀にかけての風潮なのでしょうが、「テーマ」だとか「ストーリー」だとかいったものが先行しすぎて、映像作品は視聴者のごく当たり前の楽しみ、つまり、快楽としての映像体験といったものを蔑ろにしてきたように思われます。
ここ数十年ほどの脚本技法書を10冊も読めばすぐに分かることですが、技法書の中身が技法そのものから「ストーリー」へと重点を移しつつあります。中には、「優れた筋立てを考えることが先決」であり「様々な技法と呼ばれるものも筋立てを効果的に見せる補助的な役割を果たすに過ぎ」ないと言い切っているものさえあります。
―――それは間違いです。

主に脚本初心者の方々には特に声を大にして言いたいのですが、脚本の真髄は脚本独自の技法にあります。技法を学ばない者は、脚本を学ばない者と同義です。
この「ストーリーより技法」の優越を示す証左のひとつが、演出家の存在です。
演出家は物語そのものを作りません。彼らは文字通り、物語世界に示されるものをどのような形に「演出する」かを仕事にしています。事実、脚本家も演出家です。小説家も演出家としての一面を持ちます。漫画家などはほとんど演出家です。特に何でもない小さな劇ですら、演出家の巧拙で視聴者の受ける印象は大きく変わります。
端的に言えば、下手な絵の漫画なんて誰も読みたがらないし、日本語がおかしい小説なんて文章以前の問題だし、棒読み俳優なんて台本には関係のないものです。脚本も同じで、どんな優れたストーリーもアイディアも、論理も主張も、拙い映像では伝わるどころかチャンネルを変えられてしまいます。映画館なら居眠りされてしまうでしょう。

・・・じゃあ、「ストーリー」は要らないのか?
誰もそんなふうには思わないと思いますし、ボクもそうは思いません。ただ、強いて優劣を付けるならば、ストーリーを考えたり学んだりする前に、しかるべき技法を学ぶべきだと考えているのです。
誰もが、破綻したストーリー・矛盾した筋立て・理解不能の話・順序立てのない構成を、決して望んではいません。
逆に言えば、破綻していない範囲でまあまあ意味の通じるストーリーであれば、あとは技法次第で映像作品は面白くなります。世界的な俳優であるシュワルツェネッガーやスタローンはきっと歴史的な純文学作品よりも今後も派手な演出の戦争映画を選んで出演するでしょう。見る人を選ばない普遍的な娯楽を選ぶはずです。

今回は概論だけに留めますが、再度結論に代えて。
実に多くの「脚本家」が、原作付きの脚本を担当していることに注目して下さい。脚本家は技術職であり、技法屋なのです。その脚本技法を売り物にしている人種であって、政治家や思想家ではありません。
セリフの内容の精確さや論理的な完成度を目指す前に、それは人間の心情の琴線に触れるリズムを奏でているか?
場面構成の正しさや正確無比の描写を組み立てる前に、それは人間の感情を色々な意味で揺さぶる内容になっているか?
「脚本家になるには技法を学びましょう」―――これは自分自身への戒めでもあります(汗)。しばしばストーリーの内容面、特に論理に破綻がないかといったようなことに固執するあまり、つい技法や演出を疎かにして、結局は陳腐な作劇しかできていない自分への...
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by genmuki | 2008-09-28 15:11 | シナリオ小話

シナリオ小話 第47回 画を思う者

今回は「画(え)を思う者」と題して、少し古い記憶や来歴を紹介させて頂きましょうか♪
これと共に、同じ字書きとして小説家やその他のライターと脚本家(シナリオライター)がどう違うのかといったことについて言及できていれば幸いです。

さっそく私自身の昔話をしますと・・・
脚本家になるきっかけは高校中退の時期に映画助監督に拾われることにまで遡るのですが、むしろ最も決定的だったのは、その時期に開催された「京都国際映画祭」です。これは建都1200年記念事業であり、1994年の「東京国際映画祭」を「京都国際映画祭」として京都で開催したものでした。(京都映画100年を記念して1997年にスタートしたのは「京都映画祭」でこれとは別です)
この頃の私は、同人イベントで見出され(今で言う最低水準の外注)プロへ上がったばかりのカットイラストレーター(主に女性誌のカットイラストを描いていた)で、前述のように高校を中退して将来のことを決めあぐねて右往左往しておりました。

この映画祭で、助監督の師匠の監督(つまり私にとっては師匠の師匠)が通訳を挟んで話しておいでだったのが、「ドイツの女流監督で成績もナンバーワンの方ですよ」と紹介された女性でした。ただ本当に残念なことながら、私は当時のあの女性がいったいどなたであったのか思い出せずじまいなのです。。。(滝汗)
とにかく・・・
本当は監督に挨拶をしに行ったはずでしたが、この時、私はたまたまこの女性監督の目に留まったのです(当時から私はピアスをして長髪を編み込んだ髪型の上(当日はポニーテールの三つ編みだったはず)、派手なスーツ姿だったので奇異だったのでしょう)。
「あなたは何者か?」と質問される羽目になり、「イラストを描いたり趣味で小説を書いたりしている学生です」と通訳さんに伝えました。そのまま頭を下げて、監督に「またあとでおうかがいします」と言うと、女性監督が「プロの小説家なのか」とご質問のようで呼び止められ、「イラストレーターとしては一応のプロですが小説は趣味です。今は出版社の文庫編集部の編集長さんに小説を読んでもらっているだけです」と答えます。
・・・ここで次に来た言葉が大変に衝撃的でした。
通訳さんは女性監督から話を聞くとケラケラ笑いながら通訳して下さいました―――「だったら脚本家になりなさい、ですって」と!
つまり、「絵を描き、物語を作るのなら、あなたは脚本家になるべきです」とおっしゃるわけです。「絵を想像することが脚本家なのだから、あなたは脚本家になるべきなんですよ」「物語や心を絵(ビジュアル)でつむぐ人間こそ脚本家」「まだまだ映像脚本家は不足している」とのこと。

―――この、通訳さんを挟んでまるで冗談みたいな笑い声交じりの1~2分程度の会話が、私の人生を変えたと言っても過言ではありません。バカな私のことですから、この時、「じゃあ脚本家というものになってやろうじゃないか」とすぐに思い込んでしまったこの単純さこそ笑止であるとも言えなくはありませんネ。。。(苦笑)
そもそも高校を中退して映画撮影所でお手伝していたわけですから、次の日には師匠である助監督に「どうしたら脚本家になれますか」と言って、気が付けば「標準語が分からなければ脚本など書けない」との理由から半年ほど俳優養成所の発声練習に参加させてもらい、同時に別の脚本家の先輩に預けられて修業する身となったのでした。

この半年ほどの修業期間(と言っても撮影所に行くのは週に1~2回でした)のことはここには記しませんが、この時期、そしてあの女性監督の一言(通訳さんを通しての冗談交じりの言葉ですが)が今も脳裏に焼き付いて離れない おおやぎ です。

『絵を想像(創造)することこそ、脚本家』
『だからあなたは脚本家になるべきなんですよ』

その言葉は、今も私の脚本への考え方を大きく支配しています。
ですから、今回はあえて言わせて頂きたいと思いますが、文芸志向の方は脚本家になるべきではないと思います。むしろ美術志向の方こそ、脚本家(今では演出家という職業も確立されておりますが)を目指してはどうでしょうか。

先の連載で取り上げたマリオン女史の言葉にもありますが、脚本家とは、演じられ、スクリーンに示されるべき絵(画)を想像する人種だと思うのです。
私自身、修業の1~2年目ほどには、「自分は何と日本語に弱いんだろう」「自分の書く日本語というものはいかにいい加減なのだろう」と思いが行き詰まった時期もありましたが、その後には古典などの日本語を研究し広辞苑検定等を受験するなどして、この思いは言葉の研鑚につながりました。
その後の紆余曲折の中、DTPをメインとしてイラストレーターやデザイナーとしても何とかプロとして口に出せる仕事をした折には、「絵を想像する者として、脚本家として目標は無駄ではなかった」と思うようになりました。絵(画)を想像できるがゆえに、テレビのバラエティ番組の脚本なども経験させていただくことができたのだと思います。

まだまだ本当に修業中の身の上、ゲームにしても関わり始めてから10年のキャリアを数えるようになりましたが、今だに私は、何よりも絵(画)というものの力を信じ、絵(画)から発想するするようになっています。
今の自分自身は「脚本家」であることを自負し誇りに思いますが、いつもあの言葉を忘れたことがありません。―――『絵を想像することこそ脚本家』
絵描きが連作の絵を制作するように・・・私は脚本家として映像にこだわり続けたいと思っています。

最後に。
これはまた別――上述の小説関係の編集者――の方面からの言葉ですが、「おおやぎ君は大事なシーンで風景を描写しようとするが、それは現代小説には向かないことが多い。小説では情景に逃げてはいけない。映像の連続は小説には向かない」といった旨のアドバイスを頂戴したことがあります。
今になって思うと、ああ、自分はやはり画(え)を思う人間なのだと―――映像脚本家なのだと思う次第です。
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by genmuki | 2008-09-15 16:04 | シナリオ小話

シナリオ小話 第46回 「シナリオ講話」談1

前回、フランセス・マリオンの「シナリオ講話」に触れましたら、知人より「その本を読みたいのだけど」と問い合わせを頂きました。しかしこの本は当時の価格で2円20銭の表示がある(笑)昭和13年刊行で、衆知の通り大戦前の本は多く焼失しておりまして、現在では入手できなくなっています。おおやぎが所有しているのも背表紙がボロボロになっています。
そこで、連載とまでは約束できませんが、折に触れて内容やマリオン女史の考え方を紹介していきたいと思います。

久しぶりに読み返してみますと、この「シナリオ講話」は、脚本の技法についての教示も非常に現実的であると同時に、職業映像ライターとしての考え方や心構えについての示唆に大変に富んだ良書です。
今回は第1話を中心に、マリオン女史がシナリオライターに求める大切なことを幾つか紹介してみたいと思います。
(邦訳原文のまま紹介させて頂きますが、漢字については当用漢字を充て直しております。副題と後注はおおやぎによる)

●小説と脚本の違い
通俗小説がかければ、それを映画に脚色できると断言するのが理屈に合つてゐさうです。しかし、この目的で撮影所に連れてこられた小説家の多くは映画的なストオリの製作にいづれも失敗してゐます。この作家の小説を調べてみますと多くの場合、この作家を有名にした表現様式が映画劇の求めるものと全く異なつたものであることが明らかになるでせう。読むために書かれるものは、いきほひ、演ずるために書かれるものとは、ちがいひます。一方は説明的な注釈を必要としますが、一方は表現的な動作の叙述を必要とします。小説家はその材料を小説とは異なつた表現手段に適合させることを要求されてゐたことになりますが、これは恰も画家が、そのヴィジョンを普通の油絵具のかはりに大理石によつて表現するやうにもとめられてゐたやうなものです。

―――小説に求められる内容や書き方は脚本におけるそれとは違う、ということを、マリオン女史は著書の中で何度も繰り返しています。女史は、「シナリオライター」という職業が確立するよりずっと以前の撮影所で、シナリオとは売れる題材(=小説)の脚色したものに過ぎず、シナリオを書く人間などは原作者である小説家や映画の監督・プロデューサー等から見ればまるで「字起こし人夫」に過ぎない、と評価された時代をつぶさに見てきています。こういった時代に撮影所でひたすら映画を作り続けた女史が何度も「シナリオライターと小説家は違う」「シナリオライターはシナリオライターに求められる要件をクリアせよ」と主張する声には説得力があります。

●成功する職業ライターとは
成功するライターは、あたへられた条件や要求を採り入れたプランに従つてストオリを構想します。ストオリは特殊な構造をもたなければならないことや、洗練された部分が随所にあつてもこれよよつて構造上の欠陥を覆ひかくすことができないことを、かれは知つてゐます。職業ライターもまた、撮影所首脳部その他いろいろな検閲機関を含めた諸勢力がこれまで映画劇のためにかかれたストオリに対して加えてきた不文律的な制限をよく知つてゐます。

―――要約すると、職業ライターは与えられた様々な要件の範囲で仕事をこなさねばならないということでしょう。今の時代に「検閲」はありませんが、今では「映倫」等がそれに当たるでしょうし、より拡大解釈すれば、配給会社や視聴者や監督の求めるモラルといったものをも感じ取るべきである、といったことでしょう。

●ライターに求める姿勢
ライターとしての皆さんにとつて、ボックス・オフィスの成功作品について組織立つた研究をすることは、やりがひのあることです。劇のシークェンス、情緒の展開、挿入された喜劇や偶発的な喜劇を観察するためには若し必要なら映画を二回も三回もごらんなさい。ダイアローグの割振りに注意しなさい。登場人物の重要な特徴が観衆の前に提示される仕方を注意してごらんなさい。ストオリそのものに内在している効果と、演技や演出に帰せらるべき効果とを見分けなさい。
人間性についての理解ある知識は、映画ストオリの作家にとって、撮影所用語の知識よりも遥かに大切です。

―――これもまたあらゆる分野の先人が共通して挙げることですが、映像を学ぶには優れた映像を何度も何度も見て学べということです。ここで言う「ボックスオフィス」は映画館だと解釈して下さい。

●観客とは何者か(数か所から抜粋)
突きつめたところ、映画が成功か失敗かを決定するのは観衆です(本文傍点)。映画の試験石(ママ)は「その映画のもつ観衆に対するアピイル」の量です。この故にプロデューサーは「普通観衆」の好き嫌ひについてできるだけのことを知らうと努めます。勿論「普通観衆」などといふものがあるわけではありません。この成語は観覧料収入の研究と「群集心理」の研究によつて言ひだされた抽象的な群集を指すものです。この観衆は推測上、老若、愚賢、教養、無教養、貧富から構成され、これらのものが皆一つの映画劇から娯楽をもとめるのであつて、しかもこの映画劇は諸外国にもアピイルしなければならないのです。一単位として考へると、この観衆はつねにその構成メムバーよりも一層感情的であり、一段と知的でありません。それはその最も低い共通の感情や態度によつて代表されます。
映画ストオリの作家にとつて、映画観衆を痴者の一群と見做したり、「この集団的知性は二十歳のそれである」などと想定することは、明らかに不賢明なことです。どの程度の理性を以てしても、気持のよいものを見たり、幸福な気持にさせられることを希ふことが、心理的な劣性の象徴であるなどと言へる筈がありません。この観衆は全般的に言へば、皆さんやわたしのやうな人間で構成されてゐるのです。かれらは同じ欲望、同じ反応を豊富にもつてゐます。かれらは、差しあたり、生活での宿命と思はれる労働と心配を忘れやうと努めて、スクリインを見に来るのです。
わたしは、映画ストオリの作家にとつて非常に重要なことの一つは同時代人に対して心からもつ関心であると信じます。人生が眼の前にこれほど気前よく掲げてみせる映画材料を巧みに利用するためには、映画のストオリ作家は人間のいろいろな動機を識別し、また他人のいろいろな情緒に共感することができるやうでなければなりません。

―――近い3箇所から引用しましたが、要約すると、「映画の成功不成功を決めるのはごく一般的な視聴者だ」、「視聴者を見くびったり見下したりしてはいけない。誰もが映画に夢と感動を求めているのだ」、だからこそ「シナリオライターは同じ時代を生きる人々に関心を持ち心から共感しているようでなければならない」、ということに他なりません。これはマリオン女史の主要な考え方の一端で、彼女は同著の中でこのことを何度も形を変えてライターに戒めます。

長くなりましたので今回はこれくらいにしたいと思います。ちょうど世界第二次大戦が始まる直前の時代、これほどに普遍的な職業シナリオライターのあり方を言い当てている女史の名著の邦訳が復刊されることを心より祈っています。

昭和13年刊 芸術社「シナリオ講話」フランセス・マリオン著 佐々木能理夫訳 より引用
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by genmuki | 2008-09-04 03:40 | シナリオ小話