<   2008年 12月 ( 3 )   > この月の画像一覧

シナリオ小話 第56回 セリフの誤り2

前回に引き続き、新井一先生の著書「シナリオの基礎技術」から「セリフの誤り」を引用し、簡単な解説を加えて紹介します。
さっそく前回の続きから順に紹介していきたいと思います。

F.抽象セリフ
セリフの中身そのもののに中に「悲しい」「うれしい」「楽しい」「苦しい」「きれいだ」「すてき」のような一般的な感情を用いることを、新井先生はここで「抽象セリフ」とくくり、多用すべきでないものとしています。
これについては詳説を要しないでしょう。人物のセリフが「嬉しいわ!」「なんて悲しいんだ」「きれいね~」「あら、素敵だわ。とっても良いわ」ばかりだと、どう考えたって明らかに作劇が手抜きであって面白みも何もありませんからね^^;

実際に作劇され演じられる際のことを考えると、解決策は2通りのアプローチがあります。
新井先生が紹介されているのは、より具体的な表現にすることです。苦心して山頂にたどり着いた登山者に「まァ、素敵!」と言わせる代わりに「空気がおいしい!」と言わせるようにです。どんなにひねくれた視聴者だって、感激した様子で深呼吸をして「空気がおいしい!」と言っているヒロインを見て、「確かに空気はうまいかもしれないが、登頂したって空しいだけだったろう」と思うお人はいますまい。
もうひとつのアプローチとして、主に演者の演技に期待して、あえて主・述となる部分を使わない、つまり省略です。たとえば、「綺麗ね!」と言わせるのではなく「わァ・・・」と感嘆だけさせる。「雪が綺麗よ」と言わせるのではなく「雪・・・」、「海は素敵ね」と言わせるのではなく「海よ・・・」、といった具合です。

G.文章体セリフ
作文や小説を書くかのような文章体や文語的な表現をそのままセリフにしてしまう愚を、このように呼んでいます。
例を挙げてみるとすぐに分かることですが、

「日が没しましたね」 ― 文語的表現である
「出張の準備をしに帰ってきて下さい」 → 「出張の支度をしに帰ってきて下さい」
「変な宗教に加わって」 → 「変な宗教に入って」

どれも日常的な会話としては不自然なので、より口語的になるように、あるいはそれぞれの人物像や時代観に合うようにしなければなりません。例外として、政治家が政見演説をする場面や法廷における判事の言葉、あるいは個性としてそんな話し方をする人物が存在することだってあるでしょうが、一般的な現代人が文語的あるいは文章体で喋っているのは不自然ですから正すべきなのですね。
同時に、こういったセリフについては書いている途中では気付かないことも多いので、自分で書いた脚本を「声に出して読み返す」ことが大切だと紹介されています。まったくその通りだと思いますし、ボク自身も自分の原稿を声に出したなら、ば明らかに韻を踏んでいない・息が続きそうもない・耳で聞いてみると文章の構造が分かりにくいといった様々な問題を再発見するばかりです。わかっていてもついついやってしまうこの問題、やはり校正・推敲がたいへんに重要なんですね♪

H.告白セリフ
登場人物が自分のことをしゃべるセリフのことをこうくくっています。そもそもシナリオとは事件事象と感情を交互に繰り返し説明するものですから、「私はこうなんだ」「ボクはこう思っているンだ」と自身に言わせれば、なるほどお話は先へ先へ進みます。しかし、このテのセリフの問題点は幾つかあります。
1には、一般的な感覚として、人が自分のことを自分でしゃべりまくるのを聞くのはそもそも気分がよくないこと。ドラマの定石として、自分のことについて自分自身で多く喋る人物の多くは、自己中心的な人物・自意識過剰・自慢家・自己完結主義・過剰な自信家です。
2には、「セリフのウソ」でも紹介した通り、セリフ(声)に出して明確に述べられる事実はウソっぽいということです。視聴者にとって告白セリフは常に真実性が曖昧な内容にしかなりません。こんな仕立てのセリフばかりで構成される脚本では、誰のどの言葉を信じてよいのかさっぱりわからなくなってしまいます。

これを避けるのは実は簡単で、脚本家初心者でも高確率で回避しているのが(脚本学校の学生の作品をそれなりに拝見してきた)ボクの実感です。
―――それは、他の誰かに言わせることです。

太郎「これでもボクは理科だって得意なンだからね」

と言わせると、確かに事実はそうかもしれませんが、太郎はかなり自慢家に映ってしまいます。代わりに、

謙介「太郎はほら、理科だっていいんだぜ。な?」
太郎「ん、まあそれほどでもないけど」

このようにすると、ほとんどウソには見えません。ちょっと謙遜してみせることから、太郎の性格の描写にもなります。色々な意味で、対話の形を取ると表現の幅も広がるという証左でしょうし、だからこそ太古の昔から、作劇は対話形式によって発展してきたのです^^

I.分裂セリフ
「分裂セリフ」とは、1つのセリフの中に2つ以上の内容が入り込んでしまったものです。
どうしてこれがいけないかと言うと、これはもう間違いなく、視聴者にとって理解しづらいからです。どちらの内容に対しても印象が薄れるだけでなく、このシーンではそもそもどちらについて言いたかったのか、主軸がぼやけてしまうからですね。
特に詳しく扱うまでもなく理解も解決も容易な誤りのひとつです。著書によると、「話は違うが」とか「それはそれとして」「ああ忘れてたけど、あの件」のように前後をつなぐ言葉が1つのセリフの中に入っているようであれば分裂症だと思って改めるべし、とのことです。

J.独(傍)白セリフ
「独白」や「傍白」と言うのは、共に「独り言」のことです。
まずは余談ですが知識として。「独白」とは基本的に独りでいる人物が自分の内面を吐露したり自問自答したりするものです。「傍白」はこれに似ていますが漢字の指し示す通り、「傍(はた)」で言う言葉のことで、誰かを対面している時、相手に聞こえないようにして言う言葉のことです。日本語では「はたセリフ」とも言います。
そもそも根本的に、独り言は不自然なことです。自然と出てしまう「反射」である「熱っ!」とか「痛!」は独り言とは言いません。ギャグマンガを読んでいて「あははは!」のような感情語も独り言ではありません。独白/傍白というのは、有名な「生きるべきか死ぬべきか、それが問題だ」といったものから、「おはようございます部長! 今朝もよいスーツをお召しですね! (横を向いて)似合ってねーンだよ」などの表現を指します。
基本的に使用厳禁といった類のものではありませんが、どう考えたって不自然な表現ですから多用は禁物。そもそもが使用しないべき表現だということはすぐに理解されることと思います。

解決法としては、より自然な対話ドラマの中で同じ内容を消火することです。「似合ってねーンだよ」は、わざと相手に聞こえないように傍白させるのではなく、この部長に挨拶した課長が、続いてやって来た自分の部下に「まったくあの人は悪趣味だな」と言わせたりすると良いでしょう。これでも独白のようで安易ですから、遅れてやって来た部下に「本当にあんなスーツが素敵だと思うんですか?」なんて尋ねさせ課長が「ふんっ」と鼻で笑って見せれば、おおよそ同じ内容/感情が視聴者には伝わります。

K.長セリフ
新井先生もこの項目の冒頭に「長セリフは誤りの中に入るかというと、疑問をもたれる方が多いと思います」と書かれている通り、長セリフに関しては今だに脚本世界でも激しい論争があります。今も脚本家の個性なのだから許容されるべきだとする意見も多く、この「脚本家の個性」「表現手法のひとつ」といった見方にはボク自身も強く賛成します。しかし一般論で言うと、長セリフを多用した作劇はツマらないと断じて良いと思っています。
「長セリフ」とは言うまでもなく、一人の人物が延々と長いセリフをひとりで話し続けることです。今日有名なのが「渡る世間は鬼ばかり」といった橋田先生の作品です。橋田先生がどうして長セリフなのかの邪推の類は本義でありませんので割愛しますが、どうやらご本人が「家事をする主婦がテレビの前にいなくてもセリフでドラマが理解されるように工夫している」と語られているのが主因のようです。

新井先生は長セリフを改めるべき最大の理由として演劇と映像の根本的な違いに着目します。演劇には視界の枠がなく、常に(映像的に)ロングの状態で展開する。また同時に「生」の芸術である。だからこそ、細かい表現方法よりは、感情をうたいあげる形の長セリフが雄弁術として魅力的であり、観客は話術の面白みを楽しんだのである、というわけです。
比して映像は、まず第一に「生」ではないので「生」の魅力を問えません。もうひとつは、映像芸術はリアクションにこそ重点を置くものであり、喋っている内容よりも聞いている方の反応に力点がある芸術なのだという点。なるほどこれは納得できることではないでしょうか?
あるセリフの内容が実は非常にショッキングだったとしましょう。「3月の死者は350人、4月に入ると814人、今月は今日が18日ですでに1134人です」という事務官の報告があるとしますと、「4月に入ると814人」の時点では、この報告を聞く大臣がまゆをひそめる映像が欲しいところです。さらにこのあとのセリフが聞こえているシーンでは、居並ぶ担当者たちがたまらずお互いに耳打ちしたり顔をしかめる映像が欲しいでしょう。
演劇ならば「なんと、それほどに!」とか「これではますます被害が広がると思って間違いないではないか!」といった合いの手も入れねばなりませんが、自由に視点をコントロールして視聴者の感情に働きかける映像ならではの簡潔かつスピード感のある処理を心がける場合、やはりセリフそのものではなく、そのセリフに対するリアクションを映像化するべきなのです。音声で与えられたインフォメーションに対して、視覚で与えられたインフォメーションが相互作用して視聴者に届き初めて意味を作り上げるのが今日の音声付き映像の醍醐味なのですから。

今回は第2回目ということでありこの4つを紹介しました。
おさらいになりますが、もう一度、新井先生による「セリフの誤り」の分類を掲載しておきます。

A.過剰セリフ
B.説明セリフ
C.英会話セリフ
D.性格のないセリフ
  1.挨拶セリフ
  2.職業セリフ
E.過少セリフ
F.抽象セリフ
G.文章セリフ
H.告白セリフ
I.分離セリフ
J.傍白・独白の濫用
K.長セリフ

一般的に映像脚本の8~9割を占めるのがセリフですから、セリフの巧拙は脚本の評価に大きく影響します。
作劇の意図として、あるいは脚本家自らの個性として、脚本の表現にはかなり広い範囲と許容値を認めるべきですが、同時に、ごく一般的な視聴者の大多数にとって、うんざりするもの・ドラマをツマらないと感じさせるもの・ウソっぽいと思わせるもの・退屈なもの・内容が理解しにくいもの、これらは積極的に回避すべきです。
「これぞ我が個性也」と開き直るのは老熟してからの楽しみと思い、やはりまずは一般的な視聴者の感情を大切に、セリフについても避けるべき事象をよく知って脚本の改善に努めたいものです♪
[PR]
by genmuki | 2008-12-22 18:01 | シナリオ小話

シナリオ小話 第55回 セリフの誤り1

新井一先生は「シナリオの基礎技術」の後半で、シナリオ診断学と題して主に初心者のシナリオが冒しがちな間違いを統計的に導き出し、どういった箇所に気を付けるべきか/どうしたら改善できるかを分かり易く解説されています。ただ単にシナリオはこうあれば良いと論じるのではなく、実際の生徒さんの作品を大量に分析し、シナリオ執筆人にとって『ああ成る程』と思わされる指摘の多いことが、まさにこの教本の白眉です。
今回はこの教本から「セリフに関する誤り」を紹介したいと思います。

まずはじめに。
新井先生はシナリオ診断学として6323本のシナリオを分析されましたが、結果、シナリオの欠陥を7つに大分類しています。

1.セリフに関するもの 6022
2.ト書に関するもの 4233
3.時間経過に関するもの 620
4.人物描写に関するもの 505
5.構成に関するもの 272
6.場面の描写に関するもの 187
7.一般的な描写に関するもの 99

セリフに関する誤りが見出せるものは全体の95%にのぼり、残り5%は無声映画や映画詩だったので検討の材料にならなかったと言っています。つまり実質100%の脚本でセリフに関する誤り/上手くない点が見出せるというのですから、ありとあらゆる脚本家には精進の余地があるということですネ★

この「セリフに関する誤り」は、次の通り11に分類されています。(それぞれは造語です)

A.過剰セリフ
B.説明セリフ
C.英会話セリフ
D.性格のないセリフ
  1.挨拶セリフ
  2.職業セリフ
E.過少セリフ
F.抽象セリフ
G.文章セリフ
H.告白セリフ
I.分離セリフ
J.傍白・独白の濫用
K.長セリフ

数が多いので2回ほどに分けて連載したいと思いますが、さっそくそれぞれを見ていきましょう。
(純粋な引用ではなく、引用しながらおおやぎの意見や考えも加えておりますので悪しからず)

A.過剰セリフ
新井先生によると初心者シナリオの筆頭に挙げられるものだそうです。「過剰セリフ」とは、言うまでもなく、セリフで表現する必要もない部分をセリフで表現していることや、同じことをセリフで2重3重に表現すること、本筋に関係ないことをべらべら喋りまくる作劇をすることのことです。
著書ではこの原因を大きく3つに分析されています。

1.シーンを書こうとしても場面が思い浮かばない(のでセリフで安定/定着を試みる)
  「お茶をどうぞ」や「なんて汚いんだろう」等の、映像を見れば分かることをいちいちセリフにしないと落ち着かない
2.テーマがはっきりしていない
  このシーンではどういう感情を描かなければならないかが決まっていないので余計なセリフを書く
3.作者の律義さ
  問いがあれば必ず答えなければならないといった強迫観念のために、いちいち重要でない言葉のやり取りが続く
  たとえば「いい天気ですね」で始まる会話の後に一通り天気/天候についてセリフのやり取りを書くといった感じ。律義に受け答えをしていると、いつまで経っても本題が出て来ないで、本当に言わなければならない情報が最後に取って付けたようになってしまう

B.説明セリフ
これは以前にも拙連載で書きましたが、脚本はそもそもト書にしてもセリフにしても説明の連続です。様々な出来事や事象、物や情景の様子や心情などを連続して説明し視聴者に示していくものが劇でありドラマなのですから、一切の説明をしないということは不可能です。ですが、この説明をいかにも説明ですという風に喋っては、それは「説明セリフ」だということになります。
新井先生の例によると「心配だから探してくるわ」の「心配だから」は説明セリフだということです。これを避けるために心配している気持ちの芝居を作るべきだとしています。まったくその通りですね^^ さしずめ、

(ジッと座りうつむいている道子、顔を上げて立ち上がり)
道子「やっぱり私・・・!」
 と、エプロンを外して早足で部屋から駆け出す。

―――こんな感じに、芝居仕立てにすれば解決するでしょう。

C.英会話セリフ
初心者はセリフをまず“言葉のやり取り”であると考えることから生じるのであろう、と分析されている誤りです。

「どこへお出かけですか」
「銀座の方へちょっと」
「お買い物ですか」
「いえ、夫があちらから帰って来るものですからその支度に……」
「ご主人はどちらから……」
「アメリカに行っておりましたの」

・・・このような例が挙げられていますが、説明セリフを会話に仕立てただけの、性格も感情も感じられないやり取りになっています。同じことを会話に仕立てずに1人につらつら喋らせれば説明セリフ、2人に会話させても英会話セリフ―――であれば、さてどうするべきでしょう?
そもそも前述の新井先生の指摘の通り、このシーンを描くことによって何を表現しようとしているのかという作家側の準備が不足しているせいだと思われます。ですからこのようなシーンはそもそも省略してしまって良いかもしれません。夫がアメリカへ出張しているこの奥様が、夫の出張と帰国を周囲に知られたくないだとか、そういった「心情」を表現したいという目的があって初めて、ご近所さんとこんな会話をする必要が生じるのでしょう。

D.無性格セリフ
人間は感情の動物であるという基本を考えた時、感情のこもらないセリフは言わないし、脚本家もそれを書くべきではないということです。特にこれが生じる場面を、「挨拶」と「営業」の場面だと指摘しています。「おはようございます」等の挨拶言葉は数も少なく、ともすれば誰もが同じ言葉を使うことになるので、「おはようございます」「おはようございます」と書いても、この2人の感情や性格を何ら表現しないわけです。
八百屋のオヤジさん奥さんに対してが「ッらっしゃい」と言う代わりに「今、お帰りかい」と言えば、彼女が働きに出ている女性であることが分かりますし、2人は顔見知りでわりと親しいことが分かります。「見ねえ顔だね、大根いいよ」(やや説明セリフですが)と切り出せばこの奥さんは最近引っ越して来たばかりかもしれませんし、八百屋のオヤジは初対面でもなかなか気さくで親切です。「よう。ニンジン今日もいいのにねえ」「いやだわ、もう」なんてやり取りになれば、奥さんか彼女の息子がニンジン嫌いなのを知ってておちょくった八百屋のオヤジのちょっとしたイタズラ感覚が面白いかもしれません。(エロなドラマならなお面白いかもしれませんけどw)
とにかく一つ一つのセリフの中にそれぞれの人物の性格や心情を反映するように工夫することが重要だというわけです。

E.過少セリフ
過剰セリフの逆であるように思われますが、やや違います。喋り過ぎるのに対して喋りなさすぎるのではなく、あまりに淡白すぎたり単純すぎたりして、そこに感情や心情、あるいはドラマが感じられないセリフをこう言っています。

齋藤「ああ、美也子さん、お久しぶりです」
美也子「あら」

・・・このような10年ぶりに再会した恋人同士の会話を例が挙げられています。一見間違いではないけれど、よく考えてみると、この「あら」だけでは半年後であろうが5年後であろうが同じになるからいけない、というのです。10年という歳月にふさわしい作劇を試みよとのことで、

齋藤「ああ、美也子さん」
美也子(じーっと見て)齋藤さん?」
齋藤「お久しぶりです」

このように書き改められています。なるほどと思います。別にセリフを付け足したりセリフを長くするわけではなく、芝居と合わせて歳月を表現する方法を模索しているのです。
どうしてもシナリオの中では「ああ」とか「うん」といった相槌も出てきます。こういった箇所の全てを芝居によって作劇していくと、今度は異様にバタくさい・動作過剰で日本的でない映像になってしまうとは思うのですが、要はケースバイケース、短すぎて感情も性格も事象の正確さも表現できていないセリフがあるとすれば『む?これはどうしようかな』と考えるようになるだけの眼と心構えを持ちたいですね。

この「過少セリフ」でもうひとつのタイプが挙げられていますが、それがト書の中にまぎれてしまったセリフです。

主人「では、気を付けてお帰り下さい」
 といわれて、丁寧に礼をいって去る。

この場合、送り出してくれた主人に対して主人公が言った「丁寧な礼」の内容をきちんとセリフに仕立てねばなりません。
ト書の中で「イライラしながら行く」とだけ書いた時、普通、演者は眉間をシワを寄せてズカズカ歩くくらいしかしません。「何だよもう、この、もう、んぐ、ん~、この忙しい時期に、たく、ん~」のようなセリフ(言いよどみ等はセリフの中に明確に書く必要はないかもしれませんが)を書いておかないと、このように喋ることはありません。
本来はセリフなのに脚本上できちんとセリフとして表現されていないものもまたこの「過少セリフ」に当たるというわけですから注意しましょう。

今回は長くなりましたのでこの辺でおしまいにして次回以降に続けたいと思います。
セリフは脚本の80~90%を占める内容なので、どのようなタイプの誤りを見ても脚本家としてドキリとさせられますね^^; いはやは精進あるのみです。
やはりもっとも大切なのは、脚本家として、脚本を書く時に“目を醒ましていること”ではないでしょうか。いきおいその場で力任せに書くと、ついついセリフは“流れ”ます。自分の書いたセリフのひとつひとつ、その内容と前後関係を吟味して分析・必要に応じて書き直せるだけの技量と心理的な余裕が必要ですが、何よりも自分の書いたセリフが上手いのか不味いのか、それを判断できるだけの“醒めた目”を持ち合わせたいものです。
[PR]
by genmuki | 2008-12-16 13:09 | シナリオ小話

少し勘の狂うゲームシナリオのスタッフ表記

2008/11/29 Mixi日記より転載

ちょうど2日前か、5年強の以前にボクのアシスタントとして在宅で映像シナリオを手伝いつつ勉強していた後輩さんから久しぶりにお電話をもらいました。
彼もボクと同じようにゲームシナリオの道へ進んだみたい。
これまたボクと同じく、やはりゲームシナリオライターといえばPCの文章型ソフトのシナリオも担当するそうですが、そこで後輩さん(と今も呼ぶのはとてもおこがましいですが^^;)から愚痴のひとつふたつ。

「どこで誰が何をしてどう言ったまで指定されるのは良いとして、スタッフロールにシナリオライターとして自分“だけ”名前が乗るのって不思議な気分しないですか?」

・・・まったくもってその違和感の大因は理解できます。
アニメや映像系のドラマorバラエティorドキュメンタリーでも、きちんとシナリオライターの名前は記載されます。しかしそれは多くの場合、技術者として認識されます。
比してゲームの場合、まるで「脚本家」として名前の挙がった人間が、物語から世界観から設定から脚本から全部担当しているような響きがありますよね。
詳しくお話を伺うと、やはり後輩さんの違和感もここにあったようです。

放っておいても「原作:だれそれ」だとか「企画原案:だれそれ」と記載されるテレビや映画とは異なり、ゲームにはそのような表記がほとんど見られません。
するとまるで「シナリオ:だれそれ」←こいつが何もかも考えて勝手に書き散らしている印象すらあるのでしょう。

PCの文章型ゲームに関わって10年を超えました。
今まで何度も何度もメーカーさんにはお願いしているのですが、いい加減、原案や企画は誰がやったのであって、脚本は誰がやったのか、厳密な記載をお願いしたいところです。
ハリウッドまで行かなくても、大抵の映画やテレビを見ますと、「原案(原作)」「企画」「脚本」と分けて記載されています。

最近はまさに「ライティング」と呼ばれるような仕事も存在します。これは事細かな指定や画像があった上で、それに合うように“口パク”的に文章/セリフを埋める作業です。
・・・残念ながらこういうものを『シナリオ』とは呼ばないのではないでしょうか。―――けれど実際にはシナリオライターの職掌でしょう。
そろそろこれに応じた適切なスタッフ表記名を考えてはどうでしょうか^^
[PR]
by genmuki | 2008-12-04 02:15 | 幻夢騎