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シナリオ小話 第59回 具体例の点描

第59回の今回は「具体例の点描」と題して脚本表現の中でも特にドラマ表現について考えてみたいと思います。
結論から言いますと、映像シナリオ上の物語は全てが「具体例」の「集合」から構成されなければならないということです。
これはどういうことかと言うと、具体的な事象を何度も何度も繰り返さなければならないということ。―――実に当たり前のことです。
ただ、このことは割と手間がかかります。いちいち手を付けなければ何も具体的になりませんし、その上、適した具体例を幾つも考え出さなければなりません。さらにその配置の妙にも心を砕くことになります。

盲目の少女が主人公なら、この人物が盲目であることを具体的にいくつも描かなければなりません。
「はいどうぞ」と出された湯飲みに手探りをして、道を歩けば杖で触れ損なった小石にはつまずきます。脇を歩く親子が桜の花を見上げて「きれいね~」と言い合う姿を素通りさせ、建物に入って行くにもタッチ式の自動ドアを開けるのに一苦労する。これらひとつひとつの具体的な描写を通じて主人公が盲目であることを視聴者に伝えるのです。
・・・やはり当たり前のことです。けれどついつい、この手間を惜しんでしまいます。書き手は彼女が盲目であることを最初から分かっているので、それをつい当たり前のこととしてすっ飛ばしてしまうのです。
たとえば「はいどうぞ」の湯飲みのシーンだけだった場合を想像して下さい。作者はこのワンシーンを描いたことによって彼女が盲目だと説明したつもりになっていますが、目が見えていたとしても何か他の考え事をしていたせいかもしれないのです。彼女が杖を突いていたとしても、足が不自由なせいかもしれません。その杖が明らかに視覚障害者に独特の杖だったとしても、一般人は杖の種類でその人が全盲者であるかどうか即座に区別が付きませんから、正確に『彼女は盲目である』ことまでは分かりません。

彼女は恋人と離れ離れになってしまい今も淋しい思いをしているのだ、という場合。
彼と昔にやり取りした恋文なんかを大事そうに読み返したり、机の上の写真立てに見入ったり、ちょうどそんなところに電話が鳴ってハッと慌てて駆け出してみたり、その電話が間違い電話で思わずムキになって激昂してみたり。とにかくこういった表現が幾つも出てくるからこそ、彼女の淋しさ・その心理の重さが伝わるというものです。
私が思うに、脚本でのドラマ表現は小さな小石を幾つも集めて作るモザイク画のようなものかパッチワークのようなもので、赤い石を1つばかり貼り付けたから赤なのではなく、赤やオレンジや紫の石を同じ場所に集めて貼り付けるから赤なのです。

この「具体例」羅列や列挙は、やりすぎると解説的になったり説明過多になったりして“くどい”ですし、ドラマの展開速度から言っても転がりが悪くなる可能性はあります。
しかし、じゃあこういった「具体例」の積み重ねをすっ飛ばして何かを分からせようとすると、そもそもそれは不可能になってしまうと思われます。
やはり幾つかの検証できる材料、つまりドラマのヒントが幾つかあって、初めて視聴者に伝わるのです。

最近に限った話ではないですが、特にゲームやアニメ等の若者向け脚本を請け負う際、よく監督や企画さんから聞かれるのが「点々話」です。
私が勝手に「点々話」と名付けているだけですが、簡単に言えば、AだからBで、BだからCで、Dが起こるからEになってFになって、と展開していく筋道のことです。何も間違いではありませんが、いつもやや性急に感じます。
抽象的なイメージですが、A+B+CだからDで、Eに対してFもあったけれどそこにGもあったからHなんだ、といったように、ドラマを転がす際にはややじっくりと進めていきたいものだと思っています。
偶然に繁華街で出会って不良に絡まれているのを助けてあげた、だから彼女は彼に惚れてしまいました、だなんていう場合がそうです。確かにそういう電撃的な一目惚れもあるでしょうが、この彼女が彼に段々惚れていく様子は、やはり幾つかの具体的な事件の中で深めてあげるべきなのではないでしょうか。そうすることが何よりも視聴者には親切なのだと思います。
テストの点数が悪かった少年、これでは小遣いを減らされるなり大好きな野球を禁止されるからと、頑張って勉強します、次のテストでは90点もとって母さんもご満悦です、という場合でも、彼が頑張って勉強している様子は幾つかのシーンに分けて複数入れる方が良いと思います。

推理物ではわざと表現を「点々」に留めておいて、容易に先の展開を読ませない、という手法も考えられますが、やはりこれは例外でしょう。
ニュースなんかを見ていると、「このことについて町の声です」として、少なくとも3人や4人のインタビュー映像を流します。これこそ「具体例の点描」です。たったひとつを取り出したのでは何だか作為的だし信憑性を損ないます。同じことは創作ドラマにも言えて、やはり「点々話」では作者の都合ばかりが優先されていて視聴者が置いて行かれた感じがします。少なくとも3つ、具体例を示したいところです。2つ目までは“線”かもしれませんが、3つも示されると“面”になって伝わると思います。

“くどく”ならない範囲で、けれど手間を惜しまずに、目安としては少なくとも3、4の具体的な描写を用いて1つのことを説明するクセを付けたいものです。あとから削るのはとても簡単だからです。
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by genmuki | 2009-01-28 00:42 | シナリオ小話

シナリオ小話 第58回 段取り芝居

今回もやはり脚本初心者の方を主眼に置いて、「段取り芝居」のススメをしたいと思います。
一般に「段取り芝居」と言うと、月並みで当たり前のアクション&リアクションが続くことを指し、ツマらない作劇・飽き飽きする単調な芝居といった悪い意味で使われる言葉です。しばしば「お約束」だとか「ご都合主義」だとも言われます。
しかし、脚本だけでなく小説やマンガでも、この一種の「お約束」は大切なことなのです。比較的に初心者の脚本や、特に若い方のゲームシナリオやノベライズを拝見していると、やはり「段取り」が悪いように感じています。
ここで言う「段取り」とは、ごく小さなこんなことです。

 木戸をやかましく叩く音が聞こえる。
権兵衛「来なすったかい」
 と土間を振り返る。

―――ただこれだけのこと。“これだけのこと”で、あまりに当たり前のことです。
戸を叩く音(ノック) → そちらを見る → 誰かが入って来る
こういうのが「段取り芝居」です。つまり、シーンを「来なすったかい」のセリフで始める代わりに、木戸を叩く音を入れているのです。この音を聞いたからこそ待ち人がやって来たことが分かるという寸法。
あらゆる部分がこれでは辟易してしまいますが、こういった段取りは視聴者に対してとても親切です。流れがかなりスムーズに理解できます。こんな“ほんのちょっと”の流れを綺麗に作っていくことが脚本ではとても大切なことです。

しばしばドラマで見かける場面ですが、女性にとある手紙が届くといった時、彼女の帰宅シーンから描きます。彼女が自宅へ帰って来て、郵便受けを開けてチラシやらと一緒にこの封書を取り出すわけです。こういう段取り芝居では、往々にしてこの封書の内容が次のドラマに関係するんだろうと分かります。分かるからこそ親切なのです。
路上で男女が偶然に再会する場合は、ただお互いに立ち会って「やァおひさしぶり」では面白くないわけでして、すれ違いで肩がぶつかったりするお約束が単純ではあるけれど分かりやすい。こういった引き出しをたくさん持っていることが大切です♪
誰かがヌッとやって来るシーンでは、彼のことを噂話させておきます。噂をすれば何とやらというやつです。シーンの冒頭で彼がドアを開いて「よォ!」とやって来るよりも強まります。

これはセリフ運びでも同じことが言えます。
「タケシ遅いなァ。何かあったのかなあ」と直接言わせるとかなり安易です。
これを、「遅いなァ」「タケシ?」「うん。どうしたんだろうなあ」と言わせると少しマシです。会話の段取り作りです。
もちろんこんなセリフの運びもやや説明的で退屈ですが、お約束だけあって視聴者にはかなり理解しやすいわけですし、「どうしたんだろうなあ」のセリフに重さが加わります。次のシーンが雨の交差点で救急車の赤いランプが光っていたりするとかなりショッキングです。

こういう具合に、ほんのちょっとしたことをきちんと「仕立てる」ことが作劇ではとても大切なのです。
言いたいことだけを言って走り去るような脚本ではいけませんし、また、ノックをしないでドアを開けるような芝居もいけません。
特にセリフの中で「そういえば」とか「ああ、そうそう」とか「思い出したんだけどサ」なんて言葉が多用されているようであれば、それをもうちょっと自然な段取りにならないか考えてみたいところです。「話は変わるけど」なんて言わせているなら、まさに目的の話題へ段取りすることを考えるべきですね。

この「段取り芝居」はちょっとした手先のテクニックであって、脚本や作劇に慣れて来るともう本能のように自然をこれを書くようになるようです。
比して初心者は、誰かが部屋に入って来るなら場面なら「○○が入って来る」というト書から柱を始めたり、女性同士が喫茶店で話している場面では「そういえば、彼氏の方はどうなのよ?」と切り出したりさせがちです。
繰り返しになりますが、一般的で常識的な「段取り」についていかにたくさんの引き出しを持っているかがとても重要です。
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by genmuki | 2009-01-22 15:52 | シナリオ小話

シナリオ小話 第57回 不正確表現を改める

今回は主にドキュメンタリー映画や報道映像、教養番組などを作る上で、特に構成作家や脚本家が避けるように細心の努力を払わねばならない「情報の不正確さ」「ミスリード」の回避について考えてみたいと思います。
映像というのは今日のメディアで中心的な影響力を持ち、しかもかなり「刷り込み効果」の強い媒体ですから、特に脚本家は表現に気を付けねばなりません。
意図的に事実をねじまげたりするのは言語道断ですが、脚本家が意図せずミスとして結果的に「捏造」を伝えて・書いてしまうこともあります。映像作家としての脚本家は決してこのようなミスを犯してはなりません。

まず、ドラマを面白くするために引用してくる「データ」の正確性を期すことです。
ベトナム戦争を題材にした映画を見ていると、「○○年以降、この地域には○○人の若い将兵が投入され、○○年から○○年にかけての帰還率は○○%であった」といったようなナレーションが入ることがあります。当たり前ですが、この数字がでたらめであってはいけません。
これが小説のような書籍なら「本当かな?」と感じた時点で読者は本を閉じることができますが、映像・特に映画の場合は、この映画を見終わって映画館を出るまで「本当かな?」と思ってもそれを検証する機会がありません。テレビやラジオでも似たようなもので、調べようとしている間にも番組は先に進んでしまいます。ゲームの場合には中断することもできるでしょうが、この「中断可能」かどうかは大きな問題です。中断不可能な体験としての映像では、特にデータの正確性には慎重を期さねばなりません。

次に、「切り抜き」に慎重になり自制することです。
拙連載の初期でも書いているように、映像は「切り抜き」のメディアです。2年間にもわたる長い戦争も2時間の映画に編集しなければなりませんし、10年20年といった主人公の人生ですら1時間や2時間の映像の中で描き出します。つまりシナリオにおけるストーリーは、大半が省略されていることになります。これも当たり前のことですが、小説以上に時間の制約を受けますので、たとえば小説にして全7巻とか全25巻といった長編に相当する映像作品は実質的には存在しえません。
大事なことは、大切な描写を省略してしまっていないかと注意することです。ドラマとしてあまり重要でないことや、人物描写として重要でないこと・本筋に関わりが薄いことばかりを切り出して編集したとすれば、それはツマらない映画になります。場合によっては不公正な内容にもなります。
「切り抜き」は脚本上の非常に重要なテクニックであり、脚本執筆の中心ですらありますが、この扱いが不適切だと、そのシナリオは「捏造だ」とか「偏っている」とか、あるいは「意味が薄い」「ドラマがない」と言われかねません。

さらに似たようなことですが、「偏り」に関しても厳しく自制しなけれななりません。
主人公は“気難しいが心根は優しい男なのだ”と書こうとしているのに、気難しいばかりのシーンが8で優しさを感じるシーンは2という比率であれば、やはり偏りを生じざるを得ません。このことは厳密にはケースバイケースで、8の気難しさがあるからこそ、2で描かれる優しいシーンがより際立つという理屈も成り立ちます。けれどやはり視聴者にとってこの主人公は“気難しい”人物だという印象が勝るのは事実でしょう。
こういった部分も、『自分はちゃんと両方書いたのだから』と開き直るのではなく、きちんと自分なりに検証してみて下さい。主観的な判断に不安なら、他の仲間や上司に読んでもらえば解決するはずです。特にドキュメンタリー色の強い脚本を書く時には要注意です。

他に、表現の正確性を期すことも大切です。
「データの正確性」とも重なりますが、たとえば社会的にセンシティブな題材である病人や障害者を扱う際には、その言動や行動についての描写にはきちんと収集した情報をもとに、できる限り正確に描く必要があります。
たとえば1年前に糖尿病で失明した中年男性が出てくるとします。視覚障害者は視覚の代わりに聴覚が発達すると言われていますが、中年で、しかも失明して1年どころでは聴覚が視覚の代わりになるほどに発達することはありません。こんな人物に「目が見えなくなると耳がずいぶん鋭くなるものでしてね」なんてセリフを言わせればやはり不正確です。
しばしば軍事映画で、その時代・その戦争では軍隊が用いたはずのない最新の強力な銃器を使用していたりするのも、映像を今日的に・派手にする意図があることかもしれませんが、戦争映画としてはあまりにも不正確です。アメリカの南北戦争を映画化しようとするならば、当時の銃兵射撃は横一列に並んで命中率10%より遥かに低い射撃を延々と繰り返していたことを知らねばなりません。銃を撃てば兵士が倒れる、百発百中だ、なんてシーンを描いたのでは不正確なのです。

まだ他にも、ついセリフの中で書いてしまう誤った統計的情報の扱いにも注意したいところです。
五恵子「いまどきの中学生なら誰だってそれくらいもらってるよ」
母「そうねえ、月に5万円なんて普通よね」
父「やっぱりそうなのか、いやそうだろうなァ」
・・・多分、こんな家族のやり取りを真に受ける視聴者はそんなにいないと思います。むしろ金銭感覚のズレた金持ち家族のやり取りなんだろうと思うことでしょうが、ここで脚本家にはふと疑問に思ってほしいのです。―――『本当にこれを信じるお人はいないのか?』『やはりどこかで明確にこの感覚がズレていることは視聴者に知らせておいた方がフェアじゃないのか』と。
セリフややり取りの中で、「この時代には」とか「みんなは」「最近は」「ここしばらくの常識で言えば」「この業界では」等々の言葉が出てくる時には要注意。あまりにいい加減なことを書いてしまっていないか、少なくとも一度は自問してみましょう。

もっと色々と脚本家が気を付けるべき誤解・不正確表現はありますが、今回は思い付く限りで主立ったものだけ紹介しておきたいと思います。
ドキュメンタリーや記録映画でなくとも、戦争・アクション・ファンタジー・ミステリー・恋愛...どんなドラマでも、やはり根底にある表現は正確かつ公正中立でないといけませんよね♪

最後に繰り返しになりますが、絶対に意図的にこれらの取り違えや不正確さを利用してはいけません!
一種の「捏造」を「作家の個性と主張」だと言うお人がいます。確かに作家としての主張/価値観があるからこそ、何をどのように切り出すか・表現するかの選択があるのです。しかし、フィクションであろうがノンフィクションであろうが、不正確で不公平な情報を垂れ流すのはメディアの暴力です。
しばしば報道やノンフィクション作品に関して言われるこれらのことは、フィクション作品でも同じなのです。子供向きゲームシナリオでも同じです。どんな脚本家も、映像作品を暴力に変えてはいけません!
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by genmuki | 2009-01-09 16:31 | シナリオ小話