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ゲームシナリオの容量計算考

ふと知人とメッセンジャーで話しており、PC向けのゲームシナリオの容量の話になりました。
ご存知の方も多いかと思いますが、最近のPCゲームシナリオは、文章量や仕事量をテキストファイルの容量で計算することが多いです。出来上がったテキストファイルの容量に応じて対価を受け取るという方式です。
しかし、このテキストファイルの容量というのが、実は、いかにも曲者ではないか?と思っています。

ボクは元々が映像の畑で脚本を学んでスタートしていますので、多くのシナリオが台本/脚本形式になっています。
比して、昨今、ノベル形式という小説ベースの書き方が多く見られ、そろそろ単純なテキストファイル容量の計算はやめた方が良いのではないか?と疑問に感じ始めています。

―――なぜなら?
容量計算だと、たとえば、余計なセリフのやり取り・絵を見れば分かる内容のいちいちの説明・冗長な描写その他、いわば容量稼ぎと思われるようなコトを“した方が”稼げるからに他なりません。
もちろんのことながら、小説文体による描写や文章表現の巧みな部分が存分に生かされることは素晴らしいですし、そもそも動きの少ないPCアドベンチャーゲームの現状を考えると、文章で十分に表現や想像力を補い/喚起していく努力は必要です。

・・・けれど。
アニメーション演出やスクリプト上での複雑なCG処理による視覚効果が入れば入るほど、シナリオのテキストファイル容量というものは減っていきます。
つまり、演出を行うデザイナーやプログラム進行を扱うスクリプターが優秀かつ頑張れば頑張るほど、シナリオライターの報酬は少なくなるわけですね。
社内の仲間ならそれも良いでしょうが、ノベル形式を意識して推敲を重ねた文章そのものが「それは視覚効果で表現するのでごっそりカットオフします」と言われたらどうでしょうか。

また、もうひとつの視点として。
少し昔は、多くの現場で、あまり容量のことを言いませんでした。
最近になって容量のことを言うようになったもうひとつの理由は、ボイス(音声)が入るようになったからです。
ボイスが無かった時代には、テキストが多ければ多い方がボリューム感があって良いとされたこともありました。
しかし、ボイス収録もコストに直結する現在、あまりに多くボイスがあることが必ずしも喜ばれるわけではありません。そういった場合には、ボイスつまりセリフを減らし、ボイスには関わりのない説明文を増やしてボリュームを確保するようにとも指示も実在します。
ボイスが増えることのもうひとつの問題は、データが巨大化して、CD-ROMやDVD-ROMの容量に入り切らないことから生産コストが肥大化することです。
こういったことから、ボイスの数を一定範囲にとどめ、なおかつ、そのシーンのテキスト容量も指定された容量に合わせるといった技術が要求されるようになりました。
これは、少なく書くことも多く書くこともできなければならないということに他なりません。

・・・ちなみに、ボクはおおよそ多く書いてしまうタイプなので、いつも容量を削る作業が生じてしまいます。
しかし、容量単位で給与を頂く立場であるので、自分で書いたものの容量を自分で削ることほど切ないものはありません―――自分の稼ぎを自分で減らしているようなものだと感じることがあるからです。
駄文や不要な表現は削除すべきですし、水増ししてまで多く対価を受け取るべきではありませんから、このことは当然です。当然ですが・・・精神的に「どうしてだろう?」と自問してしまう切なさはご理解頂けると思います。

さらに、より重要なことに。
シナリオという作業をなさった方々が多く疑問に思われるかもしれませんが、プロットや詳細な指示を受け取ってから書いたテキストも、自分なりに物語をイチから考えて書いたシナリオも、なぜかしら現状では等しくテキスト容量に応じて計算されています。
つまり、アイディア・技法/筋立て・そもそもの創作部分が、テキスト容量計算の陰に隠れて完全に無視されています。

また逆に。
“原作”に相当する人物が他にいる場合でも、「シナリオライター」という単独の名目でスタッフロールに掲載されたことでもって、この人間が設定や筋立てを作った張本人であると勘違いされている現状もあります。これでは“原作”の方に失礼ですし、責任や実績に基づく名誉の所在も明らかではありません。
洋の東西を問わず、テレビや映画の映像メディアでは、「原作」と「脚本」は別の人間であり別の専門性であることが認識されており、スタッフロールにも別に記載されます。海外の特にアニメ映画などを見ると「Story Artist」等の表記で5人10人の名前が並んでいることもあります。 キャラクター別に担当する脚本家が違ったりするのは、PC美少女ゲームなんかと事情が似ていて、面白いですね。


そろそろ単純な「シナリオの容量計算」を改めて、
・どの程度の規模の作品を
・どの程度の容量を使って書くのか
こんなことを打ち合わせた上で、1作品あたりいくら、というスタイルに戻してはどうかと思うばかりです―――昔はずっとこうでしたから。

文字による表現が少ない名作も多く存在します。
文字表現が多く長編であるからこそ支持される名作もあります。

テキスト容量の大小=文字の多少で、ゲームシナリオライターの仕事の価値を図るようなやり方は、そろそろ限界かもしれませんね。


最後、その証左に。
かつてとても有名な文学賞を受賞した小説家から脚本家に転向した先輩がいらっしゃいましたが、その方は―――小説ではあらゆる文章表現が校正され添削の対象になるが、脚本では筋立てと作劇内容が判断されるので非常に楽であり、現実、かつての労力の半分で収入は何倍にもなった、とおっしゃっていました。
また別の見方では、ジュブナイル小説で売れっ子となった元シナリオライター同輩は、容量を指定されて書くゲームシナリオでは何も自由にならなかったが、小説を書くようになって、ページ配分から表現の分量までようやく自分の思い通りになったと喜んでいました。

容量が作品の価値なら、長ければ良いのか。
けれど、あまりに読み応えのない少ない文章量でどれほどのものが描けるのか、顧客はそれで満足してくれるのだろうか。

・・・容量計算の前に、作品そのもののあり方が問われる、難しい問題ですね。

初出 Mixi 拙連載より 2009.10.18
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by genmuki | 2010-08-21 15:09 | 幻夢騎