少し勘の狂うゲームシナリオのスタッフ表記

2008/11/29 Mixi日記より転載

ちょうど2日前か、5年強の以前にボクのアシスタントとして在宅で映像シナリオを手伝いつつ勉強していた後輩さんから久しぶりにお電話をもらいました。
彼もボクと同じようにゲームシナリオの道へ進んだみたい。
これまたボクと同じく、やはりゲームシナリオライターといえばPCの文章型ソフトのシナリオも担当するそうですが、そこで後輩さん(と今も呼ぶのはとてもおこがましいですが^^;)から愚痴のひとつふたつ。

「どこで誰が何をしてどう言ったまで指定されるのは良いとして、スタッフロールにシナリオライターとして自分“だけ”名前が乗るのって不思議な気分しないですか?」

・・・まったくもってその違和感の大因は理解できます。
アニメや映像系のドラマorバラエティorドキュメンタリーでも、きちんとシナリオライターの名前は記載されます。しかしそれは多くの場合、技術者として認識されます。
比してゲームの場合、まるで「脚本家」として名前の挙がった人間が、物語から世界観から設定から脚本から全部担当しているような響きがありますよね。
詳しくお話を伺うと、やはり後輩さんの違和感もここにあったようです。

放っておいても「原作:だれそれ」だとか「企画原案:だれそれ」と記載されるテレビや映画とは異なり、ゲームにはそのような表記がほとんど見られません。
するとまるで「シナリオ:だれそれ」←こいつが何もかも考えて勝手に書き散らしている印象すらあるのでしょう。

PCの文章型ゲームに関わって10年を超えました。
今まで何度も何度もメーカーさんにはお願いしているのですが、いい加減、原案や企画は誰がやったのであって、脚本は誰がやったのか、厳密な記載をお願いしたいところです。
ハリウッドまで行かなくても、大抵の映画やテレビを見ますと、「原案(原作)」「企画」「脚本」と分けて記載されています。

最近はまさに「ライティング」と呼ばれるような仕事も存在します。これは事細かな指定や画像があった上で、それに合うように“口パク”的に文章/セリフを埋める作業です。
・・・残念ながらこういうものを『シナリオ』とは呼ばないのではないでしょうか。―――けれど実際にはシナリオライターの職掌でしょう。
そろそろこれに応じた適切なスタッフ表記名を考えてはどうでしょうか^^
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# by genmuki | 2008-12-04 02:15 | 幻夢騎

シナリオ小話 第54回 曖昧なセリフへ

しばらくシナリオの中でもかなり細かい技術論をやって来ましたので、今回はイージーに行きましょう♪

「曖昧なセリフへ」と題しましたが、ややいい加減なことも書いていますのでご注意下さい。―――と前置きしておきたいと思います。なぜなら脚本家諸兄の中には考え方の相違もありますので、あくまでもおおやぎの個人的な技法というか工夫のひとつと考えてほしいのです。

しばしば脚本を書いていると、読み返してみて「これはかなり意味合いが曖昧だな」と思わされるセリフが出て来ることがあります。
さっそくひとつの例を挙げますと、

課長「いいかね、このプロジェクトは我が社にとってどれほど重要か」
良次「ええ・・・」
課長「だったらきみのはどうだい」
良次「ええまあ・・・」

こんなやり取りがあったとしますと、この部分の脚本をパッと見ただけでは、課長が良次を叱責していて当の良次は恐縮しているのか、課長が覚悟のほどを語って聞かせているのに良次は白けているのか、逆に課長が良次に気合を入れようと努めているのに良次は上の空なのか、それが分かりかねます。
ですからこんなセリフを分かり易くしようとして、「どれほど重要か【分かっているのかね】」「どれほど重要か【きみは理解できていないようだね】」だとか「きみの【その態度】はどうだい」「きみの【出してきたこの企画】はどうだい」のように言葉を補ってしまいます。

今回は、このセリフの補完について『待った』です。

別の回でも書きましたが、そもそも私たちは日常の中で説明的な言葉はほとんど喋りません。「私は○○を△△に□□したいと思っています」のようにまるで英語の構文のような話し方はしませんね。
このことを逆説的に考えてみると、脚本上の記述を見て『何だか意味が曖昧だ』と思えるセリフほど、実際に演じられた時に生き生きしたリアルな会話の感覚を生むことがあります。ボクは時折このことをむしろ積極的に利用するようにしています。

課長「わかってないな、このプロジェクトがどれほど重要かということをきみはまったくわかっちゃおらん」

こんなセリフを書いておいて、ふと思うわけです。―――この課長というのはもっと感情的な人物なのだから、一見して意味が通じないくらいの物言いである方が生きた作劇になるんじゃないかなと。そこで、

課長「わかっとらんよ。今度のプロジェクト、これ、重要度だよ」

ちょっとした小技ですが、一見して意味が分からないように意識して組み直したりバラしたり、特に単語だけ取り出したりする。これを実際に演じてみるとなかなか面白いことになると思っています。セリフの中の言葉の意味やつながりを曖昧にするからこそ、演者にとっては裁量の幅も出てきます。脚本家としてはこういうことも(小手先のテクニックに過ぎませんが)利用してみる価値がありそうです。
良次の「ええ」とか「ええまあ」なんていう曖昧な相槌もやはり面白みがあるように感じます。「それはわかっています」とか「精一杯やっています」等と明確な言葉になればなるほど、視聴者は潜在的にその言葉にウソを感じます。「あなたのことが好きで好きでたまらないわ」なんていうセリフと同じことです。

時代劇なんかでも、悪巧みする人物は「うむ」と頷いて、その鋭い眼光をカメラに向けるだけです。「上手くいったな」とか「手筈通りではないか」と首肯して見せるのは何だか安い。ここは演者の表情に託して「うむ」と頷いてギラリとひと睨み。セリフの意味を無くし曖昧にするからこそ、劇の内容が生きて来るのではないでしょうか。

もし脚本を書いてみて、どうにもセリフの意味が明確すぎて作劇に余裕がないと思えば、ところどころのセリフを曖昧なもの・意味の通じないもの・意味深なもの、あるいはセリフそのものを無くしてしまって省略で置き換えてみて下さい。一見して意味が通じないくらいまで曖昧にしてしまった方が妙味を醸す場合だって多くありますヨ★
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# by genmuki | 2008-11-28 17:09 | シナリオ小話

シナリオ小話 第53回 ブリッジ

今回はシナリオ技法上の「ブリッジ」について考えてみます。
「ブリッジ」とは英語の「橋」のこと。本来は映像や演劇で場面転換の際に用いられる短いBGM(背景音楽)等を指しますが、ここではそれを拡大解釈して、シナリオ上のシーンとシーンの切り替えの際の処理だと思って下さい。
(ことシナリオに関しては技法や現象の術語化が今もなかなか定まりません。それはたとえば音楽が途中からほぼ完全に西洋式に移行したのと事情が異なり、脚本・台本の世界には今も古い時代からの感覚として用語が数多く存在するためです)

まず念頭に置いておかねばならないのが、シーンとシーンのつなぎに関する技法の多くは、「トランジション」の回にも述べた通り、多くの部分が演出や監督、撮影、編集といった側に委ねられ、シナリオライターの中には、このようなことを意識すること自体は脚本家の仕事の範疇には入らないとする意見も多いということです。
しかし日本の例でも海外の例でも、多くの映像監督は脚本家を兼ねたり脚本家出身であったりします。映像監督の世界では自身で脚本が書けるのも当然の条件のように話されることもしばしば。―――だとするとシナリオライター自身も、このような監督や演出さんの考える“出来上がりのフィルム”に踏み込んでシナリオというものを考えておいて損はないということです。

本題に入って「ブリッジ」とは何かということですが、映像を想像しながら次の一例を見て下さい。

久しぶりに帰宅した小太郎、今は無人の実家の農家造りの大屋根を見上げる
杉皮ぶきの屋根の上の空、うっすら星が出始めている(カメラがパンアップ)
屋根の隅から煙が出始める
実家の前、子供時代の小太郎、父の仕事を手伝って柴を紐でくくっている
農家の庭、祖父母や父母が働いている
小太郎の父「そろそろ暗くなったで」
次郎「かっちゃ、とっちゃ、ただいまもどったでー」
 と走って帰って来る。背中には空の野菜籠を背負っている。

よくこういった映像を見たことがあると思います。回想シーンの前後を、今も変わらぬまま残っている実家の大きな杉皮ぶきの屋根を中間に据えて切り替えています。この時、「杉皮ぶきの大屋根、その向こうに見える星空」が「ブリッジ」だと言うことができます。よりシナリオ的に言うならば、「小太郎が屋根を見上げる」動作をドラマに入れ、次の柱では同じ旧家でのありし日の風景である、というシーンの前後関係がブリッジを形成していることになります。
今も変わらぬある物を使ったり、直接昔を懐古する物を使ってつなぐことの多いこの技法は、「回想のブリッジ」と言うことができると思います。このような家屋や風景の他、仏壇の写真の面影、古いノートや日記の記載、あるいは様々の思い出の品々を映しておいて(つまり登場人物にこれに注目させておいて)、次のシーンからは回想であったり懐古であったりする手法です。

次に「移動のブリッジ」の最右翼がキューンと音を立てて走る新幹線の映像でしょう。上空を飛行中の飛行機の映像もよく使われます。全国を旅するような旅情ドラマではおなじみの情景です。
サラリーマン物で東京駅前の朝の雑踏などを映しておくのも一種の「移動のブリッジ」ですし、同じく旅情物では五重塔を含む京都の街の遠景をワンカット入れていたりして、次からは舞台を移して主人公たちは京都で行動ですよと知らせるのも同じです。
「いってきます!」と玄関を飛び出した中学生の拓哉、次のシーンはロングで川の堤防の上の通学路だったりして(ここで特に拓哉の姿が確認されるわけではありません)、次のシーンが学校の教室だったりします。これも「移動のブリッジ」です。

また「時間経過のブリッジ」というのもしばしば用いられるもののひとつです。
たとえば、雪深い北陸で暮らす高校生の高男、祖父を手伝って家の前の雪かきをしながら「桜の咲く頃には姉ちゃん帰って来ると言っとったねえ」と話しています。ここで次のシーンはいきなり玄関、「ただいま帰ったよ、高男おるの?」とやるのは映像としてやや不親切なのであって、やはり日本の伝統的な風景として、雪解け、水ぬるみ、つぼみのふくらみ、桜の開花、と順に3秒ずつでも5秒ずつでも挟んでやるのが良いでしょう。
ホラーやミステリーでは、いよいよ夜が来るぞといったことを、夜空の映像と響き渡る野犬の遠吠えなどを映すことによってじっくりと視聴者に知らせます。夜になると活動する吸血鬼が出てくる映画ではほとんど言ってよいほど、太陽が山々の間に沈む行く映像が出てきます。こうして時間経過を視聴者に知らせ、次のシーンへの移行をスムーズに、今後の展開を受け入れる心理を醸成します。

他にも「主体切り替えのブリッジ」や「場面切り替えのブリッジ」といったことも考えられます。
家族ドラマなんかでは長男・長女・父・母らのそれぞれの日常をほどよく描いて行きたいわけですが、こういった時には「主体切り替え」の機会が多くなります。1.あるシーンでは長男のバイト先での内容
2.次のシーンではオイルにまみれて働く自動車整備工の父のドラマ
3.次のシーンでは高校で吹奏楽に打ち込む長女のドラマ
4.さらに次のシーンでは買い物先のスーパーで母とご近所のドラマ
・・・こんなふうになって行く時、長男が客に「ありがとうございましたー」と頭を下げる映像からいきなり整備工の父が「タツー。この部品もうダメだわー」と呼びかけている映像では、やはり少し不親切です。
この時、店長がこの長男に「おう、そろそろ休憩とってええぞ」と言い、長男は「配送来たみたいなんで商品入れたら休ませてもらいます」と小さく頭を下げて店から出る、カメラは一旦ここでコンビニの外観を映しておいて配送トラック、コンビニ前の道路があって行き交う自動車があって、彼らの住む街の映像があって、『(株)鈴鹿自動車整備』の看板が見えて、ようやく「タツー。この部品もうダメだわー」の声、そして父がトラックの下から這い出て来る、といった具合につないではどうでしょうか。ドラマの主体が切り替わるので、両者の現在地の距離感も踏まえた上でいくつか映像を挟んでやって、いわば視聴者に対して「長男のドラマはここまで、ここからちょっと映す先が変わりますのであしからず」とご挨拶を差し上げておくような感じですね^^ それこそ昔風のナレーションで、「さてさて長男はこうして今日もよく働いておりますが、同じく働き者と言えば父。現在の彼はどのような様子でございましょうか」と口上を述べている感覚なのです。
「場面切り替えのブリッジ」も感覚としてはこれに近く、これから出勤しようという春子、マンションの玄関を出てうーんとひとつ背伸びをし、「さ、今日も張り切って行きますかっ」と微笑む、なるほどその気分に合わせて今日も晴れ、空は晴天、日射しも明るく、次は制服の胸元のリボンをちょっと直しながら職場である会社の受け付け席へやって来る姿、というわけです。「時間経過」や「移動」を直接に映像化したものではありませんが、時間も場所も盗んだのを、せっかくなのでこの日の春子の明るく前向きの気分で象徴して青空のワンカットで表現してやったものです。

最後に。
これらの「ブリッジ」に相当する「つなぎ」の映像を、普段、脚本家はシナリオ上には書きません。実際にはいくらか書く人もいます。
では脚本家はこういった部分にまったくもってノータッチなのか? ―――そうではありません。
結局のところ脚本家は「小太郎は杉皮ぶきの大屋根を見上げ、彼が少年であった昔を思い出すのである」とか、「と、春子出かける。空は晴天、今日も良い天気だ」と書いている。
ただ、こういった脚本への記述方法はやや古い作家に多いかもしれません。最近の流行なのか何なのか知りませんが、今はあまりこういった書き方はしないようにも感じます。これは推測の域を出ませんが、ますます映像制作の分業化が進んだ現在、脚本家は慎ましくなったと言いますか、映像さんや演出さん、監督の領分にあるであろうと判断しているのかもしれませんね。
おおやぎ個人は、脚本とは映像の設計図であってスタッフみんなで最初に分かち合うべき第1次の資材だとの認識ですから、脚本家なりに思い付いて・思い浮かべている情景やらシーンのつなぎやら雰囲気といったものは、やはり脚本に書き込んでおくべきだと思うのです。
もし監督や撮影さんや編集さんが、「思い出に入るシーンで屋根をモチーフにするかどうかは俺が決めるンでい!」とか「空が青空がどうかはおいらの胸先三寸よ!」といったことを主張されるなら、「それで良いと思います。脚本家としてこうしてはどうかと書かせて頂いたばかりです」と答えておけばよろしい。時折こんなことで脚本家と監督が齟齬を生んでいたり、こういう部分をもって「脚本の書き方を知らん」と貶なしてみたりの風景を目にしないわけではありませんが、まったくおかしな話です。
―――だからこそ、脚本家も「トランジション」や「ブリッジ」を自分なりに学んで、自分なりに想像したフィルムを脚本にできるだけの技量を持たねばなりません。全てがその通りになるかどうかは異なる次元の問題なのであり、やはり何事をも学ぶべきですね♪
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# by genmuki | 2008-11-18 06:44 | シナリオ小話

シナリオ小話 第52回 トランジション

今回はカメラの考え方から今度は編集の考え方に触れ、「トランジション」について少しだけ考えてみましょう。
シナリオライターにとって(少なくともボクの場合は)、映像を想像しながら執筆する最中、自然と頭の中に思い浮かばれるのがこの「トランジション」です。

まず「トランジション」とは何かと言いますと、

トランジション【transition】
ビデオ・映画などで、シーンが変わる際の画面の切換え効果。フェード‐イン・フェード‐アウト・オーバー‐ラップなど。(広辞苑)

―――つまり、画面の切り替わりです。映像上のシーンとシーンをつなぐ部分にどういった処理するか、という考え方一般を指す言葉です。
今回は個別の処理を列挙して説明しませんが、基本の用語だけ解説しておきます。
「フェード」とは元々「消えていく」という意味で、映像が半透明になって消えていく(アウト)・出てくる(イン)ようなことを指します。
一般にテレビや映画の映像は光ですから、「フェードアウト」では映像が徐々に消え、何もない状態=黒の画面になります。
「オーバーラップ」とは「上にかぶせる」という意味です。現在の映像をFO(フェードアウト)させないまま、次の映像をその上にFI(フェードイン)させるような手法が一般的です。
これらは映像を透明にする技法を括ったものですが、映像そのものを縦横の方向に動かすことを「スライド」、縦横いずれかから出したり消していくことを「ワイプ」と括ります。コメディ映画やアニメで画面を丸くすぼめていくような物なら「アイリスワイプ・アウト」(サークルワイプやラウンドワイプ等とも)等、その形状に応じて名前が付いてきます。アメリカンコメディアニメでは星型の物なども多用されます。が、シナリオライターはそこまで詳しくなくても大丈夫です。

さて、前置きが少し長くなりましたが、本題はシナリオライターが念頭に置いておかねばならないトランジションについての基本的な考え方です。
カメラワークの「ズーム」の時にも述べましたが、映像とは時間体験です。時間体験とは『何が何秒間画面に映っているのか』といった基本的なことを指します。
漫画や小説のような読み物との違いは、読者によってゆっくり読んだり速く読んだりといった差異がないことで、最近はビデオの普及で巻き戻しもスローも可能でしょうが、原則としてシナリオというものは一様に前から後ろへ進むものであり、万人に対して同じ速さで見られるものだということ。
・・・としますと、ある物を長く画面に映せば、それは視聴者が対象に注目している時間が長いという意味ですから、対象はより強く印象付きます。
長ゼリフで有名な「渡る世間は鬼ばかり」では、やはりほとんどのシーンが長回しになります。画面は喋っている人物を映し続けるのですから、視聴者もジッと聞き入るという形の映像になります。

これまたやや前置きになってしまいましたが、つまり、映像の時間体験を念頭に置いた時、画面の切り替わりである「トランジション」は自然と意識されるということです。単なる編集上の「トランジション」だけなく、シナリオライターが書くシーンとシーンのつながりもまた、広義で潜在的な「トランジション」です。

クライマックスも終わってエンディング。この最後のシーンなんかは、かなりの時間的余裕をもってゆっくりゆっくりフェードアウトしてものが多いです。これは一般的に余韻を感じさせる効果があります。ライターとしては『ゆっくりフェードアウトしていくのが良いナ』と想像しながら、「待ってるからね・・・ずっと・・・ずっと・・・」のようなセリフを書いてみたりする。
また、夜に「おやすみ」と言って眠り、次に「おはよう」と言って朝食のシーンならば、たいてい画面は一度暗転(FO)し、朝食の食卓がFIします。この2つのシーンがパッと切り替わったら視聴者はかなり混乱するでしょうし、編集さんもそんなヘマはしません。しかし脚本にそっと「次の朝である」とか「翌朝」と書いておいてあげると親切なんですね。
さらに、この「トランジション」と時間感覚を前もって知っている時、シーンとシーンの間で時間を盗む時には何が何でも「ブリッジ」するのではなく『ここはゆっくりとFOしていれば十分だ』等と判断することもできます。こうすると「ブリッジ」を選択しない、という選択の幅も広がり、映像の単調化を避けることができるようにもなります。(「ブリッジ」は次回に取り上げます)

また、一般的に「ワイプ」や「スライド」は画面そのものが移動するような効果ですから、視聴者は「移動」の感覚を錯覚します。主人公やあるいはドラマの視点が他へ移動する場面に使うのが本義です。
ただし、シナリオライターはシナリオの中に「FI」とか「右へWO」とか書く必要はありません。いつものごとく、知っておいた方が良いという程度です。
しかし、この“考え方”だけはしっかり身に付けたいところです。なぜなら、シーン(柱)を変える段階になってふと『これで移動の感覚って伝わるのかな?』と思うことがあります。この時、おぼろげにでも『ワイプしてもらったら十分にそう伝わるか』とか『この前後のシーンはORするにしてもWOするにしても何かちぐはぐだな』といったことを想像することができるというのは、シナリオライターとしても大切な感覚のひとつです。

例をひとつ挙げます。逃亡者とそれを追う刑事、両方とも逃げる・追うと移動を繰り返している場合、
1.逃亡者、足早に住宅街の路地へ駆け込む
2.刑事、西新宿の雑踏の中を歩く
3.逃亡者、路地で出会った婦人に何かを尋ねているようである
4.刑事、看板持ちや客引きに警察手帳を示しつつ聞き込みして回っている
―――こんな内容を書けばいかにもオーバーラップにおあつらえ。実際にオーバーラップに編集されなくとも映像の対比が出て分かりやすいことは間違いありません。

編集を考えることは、最終的にどういう映像になるだろうかと考えることにつながります。これはまさしくシナリオライターにとっては大切な技能ですよね。
だからこそ、シーンとシーンのつながり「トランジション」を広義で捉え、一度は一通り勉強しておくのも決して無駄なことではありません。逆にこのことをまったく知らないと、『どうつなげたって違和感があるよ』と編集さんを泣かせる脚本を書いてしまったりします。

余談ですが、ぺらぺらの写真や紙に火を付けてそれが端から見る見るうちに燃えてなくなっていくような映像があります。燃えた向こうに誰かの顔があれば、ちょっとした「ワイプ」の効果を得ていたりします。
舞台演劇でも横に動く幕と縦に動く幕を使用しますし、書き割りと呼ばれるセットを横方向に動かして移動を意味したり、波を表現する布を左から右へ引っ張って行って船の行き来を表現したりします。これらは「ワイプ」であり「スライド」です。
カメラの回に紹介した「上空へパンアウト」からの「(別の場所を)上空からパンイン」なんかも一種の「トランジション」でありワイプアウト・ワイプインの効果とほぼ同じだったりします。

シナリオライターは時間体験であるところの「映像」を書くのだから、シーンとシーンのつながりにも着目しておかねばならないということで、今回は「トランジション」のことも少し勉強して、その感覚といったところを身に付けましょう、ということです。
次回は上述の通り、シーンとシーンをつなぐ考え方のもうひとつの技法「ブリッジ」について考えてみたいと思います^^
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# by genmuki | 2008-11-12 01:04 | シナリオ小話

シナリオ小話 第51回 カメラを知る3

シナリオライターの観点から映像化された際のカメラワークについて知ろうという連載も3回目です。

毎度のように申し上げますが、ここでのカメラについての記載はあくまでも「シナリオでどのように書けばどのように映像化される(可能性がある)のか」について知ることによって、シナリオ執筆に活かそうというものであり、専門のカメラワーク解説ではありませんから、特にここで使っている言葉なんかを撮影さんにそのまま話しますと「何を知ったかぶりしてるんだ、全然違うよ」ということになりかねません(笑)ので、ご注意下さいネ♪

さて、以前までにカメラの「ズーム(倍率)」系と「パン(首振り)」系を紹介してきました。
シナリオライターとして知っておかねばならないカメラワークは実はそれほど多くないと考えているおおやぎですから、カメラワークの紹介は今回が最後です。今回はいくらか残りについて考察してみたいと思います。なお「カメラについて知る」は次回も続きます(予告!)。

◆ピントワーク
「ピント」とはカメラの「焦点」を指す言葉です。すでに「焦点距離」と言われるより「ピント」と言われた方が分かり易いかと思います^^
最近ではデジタル合成によって遠景・中景・前景の3つ全てにピントを合わせるような被写界深度がきわめて深い映像も可能となりましたが、一般的に言ってカメラとレンズの原理上、あるものにピントを合わせると距離の異なる他のものからはピントが外れます。このことを前提に説明しますが―――
・ピント合わせ:ある対象からピントの外れた状態から始まり、この対象へピントを合わせていく動きを言います。一般にシナリオ中で「目を凝らすと」と「よく見ると」等のように書くと、このようなカメラワークが用いられますね。言うまでもなく、視聴者に何かを認識させる効果があります。この場面では何に注目するべきなのかも明確で分かりやすい映像だと言えるでしょう。
・ピント外し:上記の「合わせ」と逆のカメラワークですが、シナリオ上の「目を離す」という記述はおおよそパン系で処理されるはずですから、これとはちょっと違います。おおよそ「目がくらむ」「よく見えない」といった演技を補完・解説する映像ではないかと思います。演技主体の視野に入り込むことによってこういうことを表現できるのも映像の最大の特徴の一つですね。
・ピントが合わない:常に対象にピントが合わないような映像を用いることによって「視力が悪い」「目がかすむ」といったことも表現できるのではないかと思います。

・・・このように、一般にシナリオ上では「演技できないものは表現できない」と言われますが、実は映像という観点でカメラワークまでを視野に入れるならば可能なのですね。
やや余談になりますが、カメラを左右に振りながら歩いている人の視野を再現しながら、ピントも合わない、なんて状況になりますと酔っ払って朦朧と歩いている様子だって再現できますね。

◆トラック
カメラを固定しておいて首を振る「パン」の動きとは別に、カメラそのものを動かす技術に「トラック」があります。
ここまで来ると、おおやぎ個人はややシナリオ上の記述との直結に思い至りません(シナリオ上で「~~」と買いたらこう撮る、という直接の関係が希薄)ので、簡単な紹介に留めます。
・追いトラック:「フォロートラック」とも言われますが、演者が移動するのに合わせてそれを追っていくカメラワークです。演者の後ろから一緒に付いていくようなカメラは街頭での取材映像等では非常に多用されます。こうすると視聴者はナレーターさんと一緒に街の中を歩いているような気分になるからですね。これとは別に、横からフォローするものもあります。歩いて行く横顔を捉え続けることができます。
・回りトラック:「回り込み」とも言われますが、対象の周囲をカメラが円形に回りながら、同時に首を対象に向け続けることによって撮影する技法です。よく円形レールの上をカメラ台車が走っているような撮影風景をご覧になるかと思いますがまさにアレです。その他、わざとではありませんが報道映像などで忙しなくインタビュー主体を追っていくと都合上の回りトラックになっているものがあります。回りトラックで撮影した映像では、対象が画面の中心で回転しているように見えますね。この映像では、対象の人物に注目が集まる以上に、背中から正面の顔に回り込むことでより心情や状況を説明したりするのに適しています。ちょっとしたことですが、例えば多数の侍が一同に会するチャンバラ劇の斬り合いシーン等では、主人公を回りトラックすることによって「誰が主人公なのか」が分かる仕組みになっています。

◆クレーンとブーム
「クレーン」も「ブーム」も長い柄を指します。クレーンまたはブームと呼ばれる梯子車のような装置の上にカメラを据えて撮影する技法全体を指し、通常のトラック撮影以上に、上からも映像を捉えたい場合などに用います。言うまでもなく、より複雑な画角での撮影を連続的に行うことができますので、一部のアクション映像に向きます。一般的な心理ドラマにも用いられることがありますし、街の狭い路地(もちろん撮影セットですが)なんかを歩く様子を捉える場合にも用いられますね。
やはりこれについても、シナリオ上で「~~」と書いたからといってクレーン撮影に直結するということはあまり考えられず、むしろシナリオ上で「これを上空から回り込むように撮影して」のように書き込む必要はありませんから注意しましょう^^;

◆その他の最新撮影技術
撮影技術も日進月歩で、日々、新たな撮影技術が開発・工夫されています。
映画「マトリックス」で話題となった「マシンガン撮影」(タイムスライス、バレットタイムとも)は、被写体の周囲に100以上ものたくさんのカメラを設置しておき、一斉に撮影をします。こうするとそれぞれのカメラから微妙に違う画角による映像(写真)が得られるわけですが、これを巧みに編集することにより、クレーンでは到底不可能である複雑なトラック撮影が可能になるものです。
また「特撮」と呼ばれる分野で古くは怪獣映画やSF映画で用いられたミニチュア撮影や特殊合成(クロマキー)等も、一見するとシナリオとは無関係のように思われますが、実は非常に濃密な関係があります。これらの撮影技術があるということを知っていれば(すでにここをご覧の皆さんはご存じでしょうけど^^;)、脚本の中で「まさにダムが決壊する瞬間」とか「堤防が決壊」「消防車が大爆発」「ガスタンクが破裂」「タンカーが港に激突」なんてことが書けるようになるわけです。このことは非常に重要すよ!―――このような撮影技術がない時代の脚本家は誰ひとりとしてこのようなシーンを脚本に書かなかったのですから。

さて、カメラワークについての考察は今回で終わりますが、次回は「カメラ」「撮影技術」からやや話題を拡大して「トランジション」について考えてみたいと思います。トランジション(シーンの切り替え)は実はかなりシナリオライターには縁のある内容です。
今回はこれくらいで♪
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# by genmuki | 2008-10-27 18:53 | シナリオ小話

シナリオ小話 第50回 カメラを知る2

前回に引き続き、脚本家なりにシナリオ上でのカメラの動きについて基本を知ろうという連載の第2回目になります。
前回は「ズーム」に注目しましたので、今回は「パン」に注目して考察していきたいと思います。

そもそも「パン」とは、カメラの首を振ることです。カメラを同じ位置に置いておきその首を上下左右に振ることは、ちょうど人間が首を動かして周囲を見る動きをシミュレートしています。『首を振る動き』―――「パン」の動きで最も考慮しておくべきなのはこのことではないでしょうか。

さて、ではシナリオ上でカメラのパンにはどのような種類が用いられるか、その時にどのような演出効果や心理効果が期待できるのかということを、ごくごく簡単に考えていきましょう。

◆横パン
 「横にパン」等と言われるこれは、言葉の通り、固定したカメラ位置からレンズ方向を水平に回転させることを言います。
 横パンは当然のことですが視聴者に見える画面が左右方向に動くことになりますので、まず大前提として映しているものの内容が変化します。つまり、現在見えているものが見えなくなったり、見えていないものが見えてきたりします。ごく当たり前のことですが、脚本家が各シーンを作る上で最も重要なのはこのことです。

・入りパン:便宜的にこう呼んでおきますが、何かが視野に入って来ることを言います。ノックの音がする、壁を映しているカメラが横方向に向くとドアのところに同僚が立っている、といった場合に用います。つまり、カメラ(=視点)を動かして初めて何かを発見する/認識する、といった作劇の技法です。この効用は言うまでもなく視聴者が「見ている主体」の視界に入り込めることですね。逆にそのシーンで視聴者に入り込んで欲しいとは思わない人物の視野を借りることは作劇のマギレを起こしますので注意しましょう。
・出パン:「入りパン」とは逆に、人物や対象がカメラから出て行くことに注目した作劇です。道端に立っているある人物を見ている、「似てるけれど違うな・・・」と視線を外す、といった場合に用いることになりますね。やはりこれも視聴者が「見ている主体」の視野に入り込む演出なので視聴者にとって心理的な緊張や特定の想像につながらない人物の視野を借りすぎるのは良くないと言えます。
・追いパン:移動する対象を追うように横パンしてくことを指します。あくまでもここでは横パンですから、歩いていく人物の横姿を目で追うような感じのシーンで用います。同時に、見ている主体は動いていないことを示します。脚本上に「~~を目で追う」という記載をした時、彼の視点になって追いパンするのか、首をグルリと巡らせる彼自身を撮るのか、といったことを考えるように習慣づけたいものですね。
・目線の先にパン:特に厳密な名前があるわけではありませんが、たとえばカメラに映っている人物が横顔である時、彼に対して出パンすることは、ただこの人物を画面から出したという効果以上に、彼の目線が向いている先のものを映したというふうになります。視聴者はこの人物の視点に入り込み、この目線の先に関心を寄せることになります。
・情景パン:これも特に特定の名前があるわけではありませんが、広々と広がる空間を視聴者に印象付けようとする時、カメラを左右に動かして示すと、固定されたカメラによる撮影よりもさらに広がりを感じる効果がありますね。海原や山並みを撮る時に多用される効果です。
・情景説明パン:ある情景や状況を視聴者に観察させ知ってもらいたい場合、たとえば広々としてあまりに質素な蔵しぶりであるだとか、散らかった部屋、荒らされた殺人現場などを示す時、フィルム編集によって個々の要素を順々に示すより、カメラを横パンしてグルリを見せる方が、視聴者はより自分の目で観察している気分にさせられる場合があります。こういった撮影技法は何が置かれているかを教えるのではなく自ら観察させることになります。

・・・あとは横パンの組み合わせによって、停車しているタクシーの車窓から道端の人物を見る時、最初は入りパンで人物を入れ(目を動かして発見)、途中で自動車は走り出すのでやや追いパン気味になり、やがて追い抜いていき車窓から見える範囲からも消えるので出パンになります。
シナリオライターはこういう指定を脚本に書く必要はまったくありませんが、実際の映像になった時にこのようなカメラの動きになるであろうということを知っておかねばなりませんね^^

◆縦パン
 「横パン」と同じく、特に厳密なくくりがあるわけではありませんが、カメラの首を垂直方向に振ることによって撮影される効果を指します。
 この効果でも基本は同じですが、しばしば特殊な心理効果を生むことがあるのでこういったものに特に注意したいものです。

・下パン:通常にカメラを下方向に振り、人物が見下ろす動きをシミュレートします。誰かが自分の足元を見て思わず立ち止まり「んっ?」としたあと、彼の視点となってカメラを下パンして地面を見下ろす、といったような場合によく使われます。言うまでもなく地面を見る行為そのものですが、日常生活の中でボクたちはなかなか明確に首を動かすほどに上や下や見ません。だからこの上下のパンを使う時には、どうしてそれをしたのかといったきっかけを含めてしっかりと脚本上に規定しておくことが重要ではないでしょうか。もうひとつの使い方として、しばしばビルの屋上から見下ろすとか崖の上から断崖の下をのぞむ場合に用いられます。こういった非日常的な場所で高さを印象付けるために下パンすることはかなり効果的です。
・上パン:「下パン」と同じで単純にカメラの首を上に傾けて写す効果です。ごく当然の見上げる動作を意味します。星や月といった上空のものに目を映す仕種で多用される基本中の基本ですが、後述の通り別の心理的な芝居につながることが多い動きです。また「下パン」の屋上や崖の場合と同様に、巨大な高層ビルや鉄塔のような構造物の高さ/巨大さを視聴者に印象付けるためにも効果的な演出です。
・下へ追いパン:下方向にパンして何かを目で追うこの演出は、ほとんどの場合、落下物を目で追いかけることを示します。手にしたグラスを思わず取り落としてしまう場合、人物を映しておいてグラスそのものが落下してカメラの視界から下へ消えてしまっても良いのですが、この「取り落とす」という現象により着目したい場合などにはグラスに追いパンする方が効果的です。床に落ちてガシャーンと割れるところまで追ったとしたらかなりショッキングなシーンになりますね。
・上で追いパン:「下へ」と同じく、上空に向かって上がっていくものを目で追う行為を示す演出です。アッと手を放してしまった風船が上空に消えていくだとか、墓前に備えた線香の煙が立ち上っていくようなものを追いパンで撮影しているものは多いはずです。
・下へパンの特殊な心理効果:この下パンは単にカメラによって下方の何かを映して提示するのではなく、行為の主体となる人物がうなだれる/落ち込む/ふさぎこむような心理効果を想起させる演出としても多用されます。込み入った何かについてジッと考える時、我々はわりと自然に自分の手をジッと見下ろしたり机を睨み付けたりと、視線を下に向けることが多いように思われます。この自然な人間の動きをカメラワークで示すことによって視聴者に同様の心理を想起させる演出だと言えますね。
・上へパンの特殊な心理効果:通常、人間の頭上には遥かに遠い空が広がっているものです。空は地面に比べるとずっと遠くにあり人間の存在からは遠い遠い場所です。この空を見上げるという行為には特殊な心理効果が働きます。それは時によって、遠い昔を思い出す、遠く離れた人のことを思う、何かしら瞑想的な思いにふける、等のように「遠い何か」を視聴者に想起させます。墓前の線香の煙でもそれを追いパンすることにより故人を偲ぶ気持ちが伝わるでしょう。ですから脚本上に「線香の煙が静かに上空へ吸い込まれて行くのである」なんて書いてあり、それをカメラが忠実に撮って下さったとすれば、わりと感慨深いシーンになるのではないでしょうか^^
・説明的な上下パン:しばしば小説で「頭の先から足の先までをマジマジと観察する」といった表現があります。これは映像脚本でも同じ書き方ができます。この場合に用いられる代表的なカメラワークが、上下パンです。ニコニコ笑う人物の上半身を映しておく、寝癖ボサボサのサラリーマンが愛想笑いをしている、カメラを下げて順々に見ていくと、シャツはズボンから飛び出しているし、靴は左右違うものを履いている、だなんて場合にはカメラの上下の動きが面白さを増します。同様に、誰かやってきた人物の足下を映しておき、カメラを上パンしてこれが誰であるかを視聴者に知らせる。足下と上半身の2シーン構成でも良いのですが、パンは時間的な長さを持ちますので、この余裕で視聴者にドキドキさせたりハラハラさせたりするというわけです。

・・・あとは横パンと同じように、上下の動きに対応させるために上パンと下パンを適宜に組み合わせることも多いように思います。
アメリカンコミックに多用されるようなコミカルな落下の表現には組み合わせが非常に重要ですね。まずは上から落ちて来るのを見て下へ追いパン、この時には物体が接近してきます。自分の眼前を通過したら、今度は落ちて行くのをやはり下へ追いパン、この時には物体は遠ざかっていきます。長大な下パンでダイナミックな落下を視聴者に提示しています。同じアメリカンコミックなら、一度上空へビューンと飛び上がったものが、次にピュウウと落ちてくる、なんてシーンもよくありますね^^
やはりシナリオライターは脚本の上に「上へパン」等とは書きません。けれど「見上げる」「見下ろす」「うなだれる」のようなことはわりとたくさん書きます。この時にカメラのパンを用いる可能性は大ですから、見下ろした先で何を見たのか、どの程度まで見上げたのか、といったことを常に意識しておく必要があると言えますね。
以前に初心者の脚本の中で「『ん?』とちょっと見下ろす」「足をのけるとイヌの糞を踏んでいた」のような表現が出てきましたが、こういうシーンでは足下の感触でかなり悪い予感がするはずですから、ゆっくり下パンして視聴者さんにもその不吉な心理を汲み取ってもらおうという意味でも「ちょっと見下ろす」ではなく「恐る恐る見下ろす」と書いた方が撮影さんには伝わり易くて良いかもしれませんよ、とアドバイスしたことが記憶に残っています。

今回は横(水平方向)へのパンと縦(垂直方向)へのパンについて、主にカメラのパンの動きは人間の首のひねりをシミュレートするものとして紹介してきました。
特に、パンをするということは動きを実際に映す行為です。そこには時間的な長さがあります。これが速ければ焦った様子やビックリした様子を伝えるでしょうし、これがゆっくりだと悠然とした様子や怯える様子、あるいは遠い何かを思う追憶の感情などを伝えることになるかもしれません。同じものを映しても視聴者の感じる心情は大きく違います。通常脚本家は「何を見た」「何がある」という情報しか書かないことも多いのですが、それを「どう見る」かといったことも意識して脚本を書くと、きっとこの記述は撮影さんに伝わって思い通りのドラマになることでしょう。

追記:カメラワークの世界では、演技主体の視野に入り込むことを「ドリー」と呼んで区別し、「ドリーイン」「ドリーアウト」のように呼んでいたりします。今回は「パン」をカメラの「首を振る動き」程度に定義して話を進めていますので、専門のカメラマンさんはそちら方面の専門書を参照されることをお勧めします★
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# by genmuki | 2008-10-18 15:48 | シナリオ小話

シナリオ小話 第49回 カメラを知る1

しばらくシナリオの基礎技術とは違う路線が続いたので、今回は基礎的な話に戻りましょう。
今回は「カメラを知る」と題して、ごくごく基礎的な映像と脚本とカメラの連動について考えます。長くなりそうですので数回に分けますが・・・

そもそも「映像脚本」は、映像化されることを前提に書く台本であり設計図・デザイン画です。
同じ「脚本」を要する娯楽作品には「演劇」と「映像」がありますが、では、「演劇」と「映像」の最も大きな違いは何か?
―――それは、テレビなりスクリーンなりの、限られた虚構の「四角い窓」から見るということです。あまりに当たり前のことですが、映像脚本についての考えはここから始まらねばならないと思われます。
簡単に言うと、映像では「ズームアップ」や「パン」が可能で、現実離れした虚構の「視界」をシミュレートしているということです。映像にすることで宇宙だって見せられますし、顕微鏡の中だって覗けます。

このこととは別に、前に紹介した新井一先生やマリオン女史の著書にも、シナリオライターは必ずしもカメラの指定を微に入り細に穿ち脚本に記すべきではない、とされています。
これは、実際のシナリオの中に「F・O」(フェードアウト)だとか「横パン」だとか「空をグルリ右周りに映して」だとか、そういった記述をしなくても良いですよという話であり、脚本家というものがそもそもカメラの性質を知らなくて良いと言っているのではありません。
このことを前置きした上で―――

今回は最も基礎的な、ともすればほとんどのお人が「そんなの当たり前だ」と思っている映像の基本的なカメラワークについて紹介します。
このカメラワークについては、映画やテレビの映像はもちろん、最近とみに3D化の激しいゲームや、あるいは連続する画であるという意味では漫画の世界にも共通するものだと思います。

◆ズームアップ
最も基本的なカメラ技法であろうと思われる「ズームアップ」ですが、最も基本的ゆえに脚本家はこのカメラワークを完全に理解しておく必要があります。「寄り」とか「寄せ」、あるいは単に「ズーム」「カメラを近付ける」等とも言います。
「ズームアップ」の効果には様々なものがありますが、
・人物への注視:AさんがBCDさんの居並ぶ場所で今Bさんに注目しているといった区別を示すものです
複数の人間を集めて「誰が犯人か?」と探偵が言い当てる直前等、順番に各人物にズームしたりしますね
・心情への接近:何か重大なことを考える(語る)人物へ画面を寄せることにより、視聴者の関心を集中させ想像力をかき立てます
衝撃を受けた人物を大写しにして徐々に寄せたり、誰かが何かを思い出しそうな時にも寄せたりします
・事物の拡大:単純な虫めがねの効果です。ものの一部を拡大して視聴者によく見えるようにします
推理物なんかでは本に挟まった小さなメモにカメラを寄せて視聴者に示したりと多用しますね
・鍵の提示:「注視」に近いですが、物語の鍵となる道具や人物にジッとカメラを寄せることにより、視聴者に特別に印象付ける効果があります
逆に、後々の鍵になるような重要なものを視界に映しながらそれを素通りさせておくことにすると、その後の推理はグッと困難になってしまいます
・遠望や透視:「拡大」に近い考え方ですが、(しばしば登場人物の視点を借り)遠くに向かって目を凝らしたり遠い何かにジッと注意を向ける様を表現します
少しだけ開いたドアの隙間に寄せたり、交差点の向こうで手を振る恋人に寄せたりは、どれも人間の視界をシミュレートしていますね
また、「ズームアップ」には速さによる違いもあり、ジリジリと寄っていくようなズームアップは視聴者にそれだけの時間的な余裕を与えますので、物を考えたり推理したり心情を味わうには適しています。逆に素早いズームアップは、急接近する何かに思わず注視したり(この視界を持つ人物が)これからまさに何かに向かって行くぞという強い決意を示したりと、比較的強くて性急な事情/心情に適しています。
蛇足ですが、この「ズームアップ」が最も基本的かつ最重要である理由は、人間の目の仕組みにあります。人種や年齢により多少の差異はあるようですが、おおよそ人間はその前方170度程度の視界の中にあるもの全てを一応「視認」している上で、その一部に意識を集中することによって「認識」するからです。つまり、人間の目の「見るという行動」そのものがこの「ズームアップ」だと言えます。

◆ズームダウン
実際にはあまり「ズームダウン」の言葉は映像では使わないようで、「引き」とか「引いていく」、人によっては「視界を広げる」等と表現しますが、「ズームアップ」と正反対の技法です。
この「ズームダウン」の効果にも幾つかのものが考えられますが、
・心情の隔離:「心情への接近」の逆で、ある人物との心情的な乖離や距離を感じる時に用います
実際の距離が開いていくことを示すカメラの引きによって、心情的な動き/距離感を共感させるという情緒的な効果があります
・人物の後退;これは最も基本的な効果で、視界の主体になっている人物が物理的に遠退いて行くことを示す基礎的なカメラワークです
ドアをズームダウンすれば扉の前から後退りする主人公の動きを示し、しばしば車窓から覗いた映像で手を振る相手が段々に小さくなっていく様子も用いられますね
・関係の希薄化:言い方はやや難しいですが、ある事物や人物・場所と演者との関係が一時的に薄まることを示すものです
「鍵の提示」の考え方と逆だと思って下さい。後ろ髪を引かれながらも今は諦めるとか、集中していた何かから開放されるとかといったことになりますね
・眺望の拡大:カメラを引くということは物が遠退くのと同時に視界も広がりますので、映像内にはより広範囲の眺望が映されることになります
ある代表的な峰から続いてその周囲の山脈を紹介する時や、その島の周囲は絶海であることを提示する場合等にカメラを引いていきます
「ズームダウン」についても速さによる違いがあり、その差異は上述の「ズームアップ」の場合とそれほど変わりません。つまり、ゆっくりとズームダウンする場合には時間的な余裕があるので、それが後ろ髪を引かれる思いや「いやいやに」「ようやくに」といった具合の心情や様子を示します。

◆ズームアップとズームダウンの組み合わせ
「ズームアップ」と「ズームダウン」を組み合わせて使うこともよくあります。
たとえば、医者があるカルテをジッと見つめているシーン、カルテの中の重要な文字(しばしば「末期癌」だとか「治療断念」のような悲痛な記述)にズームアップしておきつつ、入って来た看護婦に「先生、先生」と呼びかけられてハッと気を取り直す時には、サッとカルテからカメラを引きます。通常の作劇なら、次のカメラではハッと振り返る医者自身を映しても良いのですが、ズームダウンする時間を置くことで、もしかするとこの医者が「いかんいかん、こんなことをくよくよ考えていてもらちがあかぬ。暗い顔など見せてはいられぬ」と思ったかもしれません。このような「集中と開放」の効果としてのズームアップ+ダウンはしばしば回想シーンの前後でも用いられますよね。
逆にズームダウンしておいてからズームアップする場合の例もひとつ。
「じゃあね~」と明るく手を振るわが子に送られて自宅を出るシーン、カメラはやや穏やかにズームダウンして遠ざかる距離感を作り上げていきますが、一転、子供の抱えるヌイグルミに急速にズームアップ、なんてことも。もしかすると「取り上げたはずのヌイグルミをどうして持っているんだ!?」という驚きかもしれませんし、「ややや、いつの間にそんな新品のヌイグルミを!」かもしれませんが、とにかくハッと驚く心情を強く印象付けます。単にズームアップだけするより、一度ズームダウンしかけておいて、と組み合わせて考えることで効果が強まるケースです。
他の組み合わせに、ある機械基盤のABCの各部品に次々とズームする(「3つのボタンが付いているがどれが正解だろう?」)、視界に対してズームアップとズームダウンを繰り返す(頭がグラグラする・視界がぼやけることのややコミカルな表現)、事物や人物に対してズームアップとズームダウンを繰り返す(「このケーキ食べようか食べまいか」「彼女に言おうか言うまいか」)等、色々な使い方が考えられると思います。

今回はレンズを備えた機械であるカメラの、最も基本的な「ズーム」についてのみ紹介しました。
しかし誤解がないようにご注意下さい。脚本家は「カメラを引いたり寄せたり」とシナリオ中に書く必要はありません。原則、「視点が定まらない」とか「頭がグラグラする」とか「○○に注目する」といった書き方をすればOKです。ただ、『自分の書いたその表記や指示が実際に映像化できるものなのかどうか』『それは具体的にどういう映像が考えられるのか』そして『(そのようなカメラワークから構成される実際の映像が)ドラマ内容を的確に伝える行動/構成になっているのか』といったことは考えねばなりませんから、やはりカメラについて知っておくことは重要なのです。
太郎さんはAを見る、Bを見る、Cを眺める、Dを見付ける、とト書で書いた時、ズームアップ、ズームアップ、ズームダウン、ズームアップ、それは何だかちぐはぐでおかしなことになってはいないか? ―――最低限、それくらいの想像力を鍛えるためにも。

※今回紹介した中の「ズームアップ」や「注視」「隔離」等は全て正式な専門用語だということではありません。あくまでも個人的に定義/記載しただけの言葉であり、これらの内容に定まった術語やその統一定義はないと思います。(もしあるのであれば是非とも教えて下さい^^;)
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# by genmuki | 2008-10-09 15:33 | シナリオ小話

シナリオ小話 第48回 技法の優越

今回は「技法の優越」と題して、これまた随想的に書いてみたいと思います。
というのも、たまさか長い間消息をとっていなかった後輩から連絡があり(今の彼は仲間たちと映画を撮っているそうですが)、『このところはどんな物語が受けるのか大いに悩んでいる』と聞いたので、脚本家はストーリーで悩む前に技法で悩みたまえと知ったような口をきいたものの、自身、ハッとさせられたことに起こります。

今度も結論から言います。視聴者を喜ばせる映像作品作りに、ストーリーは二の次です。

そもそもボクは、昨今とみに「テーマ」だとか「ストーリー」だとかいった言葉が流行しすぎているのではないかと思います。比して、「技法」だとか「テクニック」だとかいった言葉には、今だに『小手先の』『その場しのぎの』『見せかけの』といった侮蔑の感が付きまといますね。

しかし、よく考えてみて下さい。おおよその娯楽映像は、主題を滔々と説く論説でもなければ、随筆でも演説でもないのです。それは映像体験であり、誰もが求める快楽のひとときなのです。
事実、まったくの脚本・映像素人の友人たちに面白かった映画を挙げさせると、「ストーリーは平凡だったけど」とか「ストーリーは普通だけど」と言った言葉が聞かれます。そんな意見を聞いていると「ストーリーは平凡な方が良いのか?」と勘繰りたくさえなります。

映像脚本を書く時に最も必要とされるのは、主題や作者の主張ではありません。必要なのは、舞踊にすれば肉体で表現される美しさであり、絵画にすれば筆致の卓越であり、音楽にすればその旋律が人間の感情の琴線に触れるかどうかなのです。
睡蓮の連作を描いたモネが、睡蓮を描くことによって自然の美を礼賛したことはなるほど分かりますが、では彼がそこに人間のあるべき姿や自然と人間の共生なんて主張を第一義に置いて制作したとは考えられません。ごくごく純粋に、美しいと思ったものをいかに美しく描き出すかという「技法」を自らの制作テーマにしていたように思われます。

ストーリーはチープでも、大ヒットした作品は山ほどあります。ボクは毎度「ダイハード」や「エイリアン」を挙げるのですが、これらの世界的なヒット作品に、それほど複雑で巧みなストーリーや重厚なテーマがあるとは到底思えません。しかし、脚本上のテンポは非常に良いし、何度も何度も観て研究するに値する映画だと思っています。
しばしば言われますが、文学賞や映画賞をとった作品は一般視聴者にはわりとツマらない、という事実があります。20世紀後半から21世紀にかけての風潮なのでしょうが、「テーマ」だとか「ストーリー」だとかいったものが先行しすぎて、映像作品は視聴者のごく当たり前の楽しみ、つまり、快楽としての映像体験といったものを蔑ろにしてきたように思われます。
ここ数十年ほどの脚本技法書を10冊も読めばすぐに分かることですが、技法書の中身が技法そのものから「ストーリー」へと重点を移しつつあります。中には、「優れた筋立てを考えることが先決」であり「様々な技法と呼ばれるものも筋立てを効果的に見せる補助的な役割を果たすに過ぎ」ないと言い切っているものさえあります。
―――それは間違いです。

主に脚本初心者の方々には特に声を大にして言いたいのですが、脚本の真髄は脚本独自の技法にあります。技法を学ばない者は、脚本を学ばない者と同義です。
この「ストーリーより技法」の優越を示す証左のひとつが、演出家の存在です。
演出家は物語そのものを作りません。彼らは文字通り、物語世界に示されるものをどのような形に「演出する」かを仕事にしています。事実、脚本家も演出家です。小説家も演出家としての一面を持ちます。漫画家などはほとんど演出家です。特に何でもない小さな劇ですら、演出家の巧拙で視聴者の受ける印象は大きく変わります。
端的に言えば、下手な絵の漫画なんて誰も読みたがらないし、日本語がおかしい小説なんて文章以前の問題だし、棒読み俳優なんて台本には関係のないものです。脚本も同じで、どんな優れたストーリーもアイディアも、論理も主張も、拙い映像では伝わるどころかチャンネルを変えられてしまいます。映画館なら居眠りされてしまうでしょう。

・・・じゃあ、「ストーリー」は要らないのか?
誰もそんなふうには思わないと思いますし、ボクもそうは思いません。ただ、強いて優劣を付けるならば、ストーリーを考えたり学んだりする前に、しかるべき技法を学ぶべきだと考えているのです。
誰もが、破綻したストーリー・矛盾した筋立て・理解不能の話・順序立てのない構成を、決して望んではいません。
逆に言えば、破綻していない範囲でまあまあ意味の通じるストーリーであれば、あとは技法次第で映像作品は面白くなります。世界的な俳優であるシュワルツェネッガーやスタローンはきっと歴史的な純文学作品よりも今後も派手な演出の戦争映画を選んで出演するでしょう。見る人を選ばない普遍的な娯楽を選ぶはずです。

今回は概論だけに留めますが、再度結論に代えて。
実に多くの「脚本家」が、原作付きの脚本を担当していることに注目して下さい。脚本家は技術職であり、技法屋なのです。その脚本技法を売り物にしている人種であって、政治家や思想家ではありません。
セリフの内容の精確さや論理的な完成度を目指す前に、それは人間の心情の琴線に触れるリズムを奏でているか?
場面構成の正しさや正確無比の描写を組み立てる前に、それは人間の感情を色々な意味で揺さぶる内容になっているか?
「脚本家になるには技法を学びましょう」―――これは自分自身への戒めでもあります(汗)。しばしばストーリーの内容面、特に論理に破綻がないかといったようなことに固執するあまり、つい技法や演出を疎かにして、結局は陳腐な作劇しかできていない自分への...
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# by genmuki | 2008-09-28 15:11 | シナリオ小話

シナリオ小話 第47回 画を思う者

今回は「画(え)を思う者」と題して、少し古い記憶や来歴を紹介させて頂きましょうか♪
これと共に、同じ字書きとして小説家やその他のライターと脚本家(シナリオライター)がどう違うのかといったことについて言及できていれば幸いです。

さっそく私自身の昔話をしますと・・・
脚本家になるきっかけは高校中退の時期に映画助監督に拾われることにまで遡るのですが、むしろ最も決定的だったのは、その時期に開催された「京都国際映画祭」です。これは建都1200年記念事業であり、1994年の「東京国際映画祭」を「京都国際映画祭」として京都で開催したものでした。(京都映画100年を記念して1997年にスタートしたのは「京都映画祭」でこれとは別です)
この頃の私は、同人イベントで見出され(今で言う最低水準の外注)プロへ上がったばかりのカットイラストレーター(主に女性誌のカットイラストを描いていた)で、前述のように高校を中退して将来のことを決めあぐねて右往左往しておりました。

この映画祭で、助監督の師匠の監督(つまり私にとっては師匠の師匠)が通訳を挟んで話しておいでだったのが、「ドイツの女流監督で成績もナンバーワンの方ですよ」と紹介された女性でした。ただ本当に残念なことながら、私は当時のあの女性がいったいどなたであったのか思い出せずじまいなのです。。。(滝汗)
とにかく・・・
本当は監督に挨拶をしに行ったはずでしたが、この時、私はたまたまこの女性監督の目に留まったのです(当時から私はピアスをして長髪を編み込んだ髪型の上(当日はポニーテールの三つ編みだったはず)、派手なスーツ姿だったので奇異だったのでしょう)。
「あなたは何者か?」と質問される羽目になり、「イラストを描いたり趣味で小説を書いたりしている学生です」と通訳さんに伝えました。そのまま頭を下げて、監督に「またあとでおうかがいします」と言うと、女性監督が「プロの小説家なのか」とご質問のようで呼び止められ、「イラストレーターとしては一応のプロですが小説は趣味です。今は出版社の文庫編集部の編集長さんに小説を読んでもらっているだけです」と答えます。
・・・ここで次に来た言葉が大変に衝撃的でした。
通訳さんは女性監督から話を聞くとケラケラ笑いながら通訳して下さいました―――「だったら脚本家になりなさい、ですって」と!
つまり、「絵を描き、物語を作るのなら、あなたは脚本家になるべきです」とおっしゃるわけです。「絵を想像することが脚本家なのだから、あなたは脚本家になるべきなんですよ」「物語や心を絵(ビジュアル)でつむぐ人間こそ脚本家」「まだまだ映像脚本家は不足している」とのこと。

―――この、通訳さんを挟んでまるで冗談みたいな笑い声交じりの1~2分程度の会話が、私の人生を変えたと言っても過言ではありません。バカな私のことですから、この時、「じゃあ脚本家というものになってやろうじゃないか」とすぐに思い込んでしまったこの単純さこそ笑止であるとも言えなくはありませんネ。。。(苦笑)
そもそも高校を中退して映画撮影所でお手伝していたわけですから、次の日には師匠である助監督に「どうしたら脚本家になれますか」と言って、気が付けば「標準語が分からなければ脚本など書けない」との理由から半年ほど俳優養成所の発声練習に参加させてもらい、同時に別の脚本家の先輩に預けられて修業する身となったのでした。

この半年ほどの修業期間(と言っても撮影所に行くのは週に1~2回でした)のことはここには記しませんが、この時期、そしてあの女性監督の一言(通訳さんを通しての冗談交じりの言葉ですが)が今も脳裏に焼き付いて離れない おおやぎ です。

『絵を想像(創造)することこそ、脚本家』
『だからあなたは脚本家になるべきなんですよ』

その言葉は、今も私の脚本への考え方を大きく支配しています。
ですから、今回はあえて言わせて頂きたいと思いますが、文芸志向の方は脚本家になるべきではないと思います。むしろ美術志向の方こそ、脚本家(今では演出家という職業も確立されておりますが)を目指してはどうでしょうか。

先の連載で取り上げたマリオン女史の言葉にもありますが、脚本家とは、演じられ、スクリーンに示されるべき絵(画)を想像する人種だと思うのです。
私自身、修業の1~2年目ほどには、「自分は何と日本語に弱いんだろう」「自分の書く日本語というものはいかにいい加減なのだろう」と思いが行き詰まった時期もありましたが、その後には古典などの日本語を研究し広辞苑検定等を受験するなどして、この思いは言葉の研鑚につながりました。
その後の紆余曲折の中、DTPをメインとしてイラストレーターやデザイナーとしても何とかプロとして口に出せる仕事をした折には、「絵を想像する者として、脚本家として目標は無駄ではなかった」と思うようになりました。絵(画)を想像できるがゆえに、テレビのバラエティ番組の脚本なども経験させていただくことができたのだと思います。

まだまだ本当に修業中の身の上、ゲームにしても関わり始めてから10年のキャリアを数えるようになりましたが、今だに私は、何よりも絵(画)というものの力を信じ、絵(画)から発想するするようになっています。
今の自分自身は「脚本家」であることを自負し誇りに思いますが、いつもあの言葉を忘れたことがありません。―――『絵を想像することこそ脚本家』
絵描きが連作の絵を制作するように・・・私は脚本家として映像にこだわり続けたいと思っています。

最後に。
これはまた別――上述の小説関係の編集者――の方面からの言葉ですが、「おおやぎ君は大事なシーンで風景を描写しようとするが、それは現代小説には向かないことが多い。小説では情景に逃げてはいけない。映像の連続は小説には向かない」といった旨のアドバイスを頂戴したことがあります。
今になって思うと、ああ、自分はやはり画(え)を思う人間なのだと―――映像脚本家なのだと思う次第です。
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# by genmuki | 2008-09-15 16:04 | シナリオ小話

シナリオ小話 第46回 「シナリオ講話」談1

前回、フランセス・マリオンの「シナリオ講話」に触れましたら、知人より「その本を読みたいのだけど」と問い合わせを頂きました。しかしこの本は当時の価格で2円20銭の表示がある(笑)昭和13年刊行で、衆知の通り大戦前の本は多く焼失しておりまして、現在では入手できなくなっています。おおやぎが所有しているのも背表紙がボロボロになっています。
そこで、連載とまでは約束できませんが、折に触れて内容やマリオン女史の考え方を紹介していきたいと思います。

久しぶりに読み返してみますと、この「シナリオ講話」は、脚本の技法についての教示も非常に現実的であると同時に、職業映像ライターとしての考え方や心構えについての示唆に大変に富んだ良書です。
今回は第1話を中心に、マリオン女史がシナリオライターに求める大切なことを幾つか紹介してみたいと思います。
(邦訳原文のまま紹介させて頂きますが、漢字については当用漢字を充て直しております。副題と後注はおおやぎによる)

●小説と脚本の違い
通俗小説がかければ、それを映画に脚色できると断言するのが理屈に合つてゐさうです。しかし、この目的で撮影所に連れてこられた小説家の多くは映画的なストオリの製作にいづれも失敗してゐます。この作家の小説を調べてみますと多くの場合、この作家を有名にした表現様式が映画劇の求めるものと全く異なつたものであることが明らかになるでせう。読むために書かれるものは、いきほひ、演ずるために書かれるものとは、ちがいひます。一方は説明的な注釈を必要としますが、一方は表現的な動作の叙述を必要とします。小説家はその材料を小説とは異なつた表現手段に適合させることを要求されてゐたことになりますが、これは恰も画家が、そのヴィジョンを普通の油絵具のかはりに大理石によつて表現するやうにもとめられてゐたやうなものです。

―――小説に求められる内容や書き方は脚本におけるそれとは違う、ということを、マリオン女史は著書の中で何度も繰り返しています。女史は、「シナリオライター」という職業が確立するよりずっと以前の撮影所で、シナリオとは売れる題材(=小説)の脚色したものに過ぎず、シナリオを書く人間などは原作者である小説家や映画の監督・プロデューサー等から見ればまるで「字起こし人夫」に過ぎない、と評価された時代をつぶさに見てきています。こういった時代に撮影所でひたすら映画を作り続けた女史が何度も「シナリオライターと小説家は違う」「シナリオライターはシナリオライターに求められる要件をクリアせよ」と主張する声には説得力があります。

●成功する職業ライターとは
成功するライターは、あたへられた条件や要求を採り入れたプランに従つてストオリを構想します。ストオリは特殊な構造をもたなければならないことや、洗練された部分が随所にあつてもこれよよつて構造上の欠陥を覆ひかくすことができないことを、かれは知つてゐます。職業ライターもまた、撮影所首脳部その他いろいろな検閲機関を含めた諸勢力がこれまで映画劇のためにかかれたストオリに対して加えてきた不文律的な制限をよく知つてゐます。

―――要約すると、職業ライターは与えられた様々な要件の範囲で仕事をこなさねばならないということでしょう。今の時代に「検閲」はありませんが、今では「映倫」等がそれに当たるでしょうし、より拡大解釈すれば、配給会社や視聴者や監督の求めるモラルといったものをも感じ取るべきである、といったことでしょう。

●ライターに求める姿勢
ライターとしての皆さんにとつて、ボックス・オフィスの成功作品について組織立つた研究をすることは、やりがひのあることです。劇のシークェンス、情緒の展開、挿入された喜劇や偶発的な喜劇を観察するためには若し必要なら映画を二回も三回もごらんなさい。ダイアローグの割振りに注意しなさい。登場人物の重要な特徴が観衆の前に提示される仕方を注意してごらんなさい。ストオリそのものに内在している効果と、演技や演出に帰せらるべき効果とを見分けなさい。
人間性についての理解ある知識は、映画ストオリの作家にとって、撮影所用語の知識よりも遥かに大切です。

―――これもまたあらゆる分野の先人が共通して挙げることですが、映像を学ぶには優れた映像を何度も何度も見て学べということです。ここで言う「ボックスオフィス」は映画館だと解釈して下さい。

●観客とは何者か(数か所から抜粋)
突きつめたところ、映画が成功か失敗かを決定するのは観衆です(本文傍点)。映画の試験石(ママ)は「その映画のもつ観衆に対するアピイル」の量です。この故にプロデューサーは「普通観衆」の好き嫌ひについてできるだけのことを知らうと努めます。勿論「普通観衆」などといふものがあるわけではありません。この成語は観覧料収入の研究と「群集心理」の研究によつて言ひだされた抽象的な群集を指すものです。この観衆は推測上、老若、愚賢、教養、無教養、貧富から構成され、これらのものが皆一つの映画劇から娯楽をもとめるのであつて、しかもこの映画劇は諸外国にもアピイルしなければならないのです。一単位として考へると、この観衆はつねにその構成メムバーよりも一層感情的であり、一段と知的でありません。それはその最も低い共通の感情や態度によつて代表されます。
映画ストオリの作家にとつて、映画観衆を痴者の一群と見做したり、「この集団的知性は二十歳のそれである」などと想定することは、明らかに不賢明なことです。どの程度の理性を以てしても、気持のよいものを見たり、幸福な気持にさせられることを希ふことが、心理的な劣性の象徴であるなどと言へる筈がありません。この観衆は全般的に言へば、皆さんやわたしのやうな人間で構成されてゐるのです。かれらは同じ欲望、同じ反応を豊富にもつてゐます。かれらは、差しあたり、生活での宿命と思はれる労働と心配を忘れやうと努めて、スクリインを見に来るのです。
わたしは、映画ストオリの作家にとつて非常に重要なことの一つは同時代人に対して心からもつ関心であると信じます。人生が眼の前にこれほど気前よく掲げてみせる映画材料を巧みに利用するためには、映画のストオリ作家は人間のいろいろな動機を識別し、また他人のいろいろな情緒に共感することができるやうでなければなりません。

―――近い3箇所から引用しましたが、要約すると、「映画の成功不成功を決めるのはごく一般的な視聴者だ」、「視聴者を見くびったり見下したりしてはいけない。誰もが映画に夢と感動を求めているのだ」、だからこそ「シナリオライターは同じ時代を生きる人々に関心を持ち心から共感しているようでなければならない」、ということに他なりません。これはマリオン女史の主要な考え方の一端で、彼女は同著の中でこのことを何度も形を変えてライターに戒めます。

長くなりましたので今回はこれくらいにしたいと思います。ちょうど世界第二次大戦が始まる直前の時代、これほどに普遍的な職業シナリオライターのあり方を言い当てている女史の名著の邦訳が復刊されることを心より祈っています。

昭和13年刊 芸術社「シナリオ講話」フランセス・マリオン著 佐々木能理夫訳 より引用
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# by genmuki | 2008-09-04 03:40 | シナリオ小話